スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

盤上の駒を取られるポカ①&月の場合

2008-07-22 18:52:10 | ポカと妙手etc
 今まで,名人戦という舞台における,打った駒が取られるポカというのを3度にわたって紹介しましたが,考えてみれば駒をただで取られてしまうというのは,必ずしも打った駒が取られると限ったわけではなく,盤上の駒が取られてしまうというケースもあるわけです。名人戦という舞台からは離れますが,今回からはそういうケースを紹介してみます。
 第1回なので最も単純な分かりやすい例。この前,羽生名人が奪取して終った第79期棋聖戦,最終予選2回戦の一局です。
 後手の一手損角換りから相腰掛銀。後手が猛攻をかけたのですが先手の粘りの前にもてあまし気味となり,終盤からまた中盤ともいえるような戦いに戻り,混迷を極めて迎えたのが図の局面。
           
 厳密にいうと,この直前に先手にやや疑問視される手があり,後手の方が少しだけ優位に立っているとのことなのですが,僕にはそれがどの程度の差なのかは正直なところよく分かりません。局面は,9二にいた角が8三に成り,これが6一にいた飛車取りになったので後手が△3一飛と逃げたところ。
 ここで先手は▲8二馬と指しましたがこれはポカ。7四の銀が浮いてしまったので△7四角成と取られ,▲3七馬とと金は払ったものの△1七龍と入られました。これはまた後手が攻めることができる展開に。将棋もここから後手が勝っています。
 ポカには,うっかりを除けば必ず理由があります。この将棋の場合,▲8三角成と飛車取りで成って,さらに龍と角の両取りを狙って▲8二馬と活用するのは,△7四角成がなければ味よい手順。そういう意味では分かりやすいポカといえるかと思います。

 明日から王位戦七番勝負の第二局が始まります。今度は深浦康市王位の先手になりますので,羽生善治名人の作戦選択に注目です。

 ある人間の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合に,このXの観念が,神のうちにある十全な観念とみられようと,あるいは人間の精神のうちにある混乱した観念とみられようと,同一の必然性で生じるということはこれで問題ありません。そこである人間Aがいて,このAの精神のうちに生じる月の表象像を,月の混乱した観念とみた場合には,これはAの精神の本性を構成するとともに,月の観念を有する限りで,神のうちに月の観念があるという意味になりますから,Aのうちにあるこの月の混乱した観念と,この仕方で神のうちにある月の十全な観念というのが同一の必然性で生じているということは,もう問題ないことになります。
 このときに,第二部定理六系が果す役割というのがあるとすれば,これは,神のうちにある月の十全な観念が生じる必然性と,形相的に物体としてある月が生じる必然性とが同一であるということを示すことだと考えられます。すなわち,物体としての月は神の延長の属性から必然的に生じ,月の観念は神の思惟の属性の本性から必然的に生じるのですが,これを必然的たらしめる秩序や連結というものは,延長の属性にあろうと思惟の属性にあろうと同一なのです。
 よって,人間の精神のうちにある月の表象像というのは,混乱した観念には違いないのですが,このようにして考えられる限りでは,確かに形相的に実在する月という対象を有しているということになります。よってこの場合には,月の混乱した観念が必然的に生じるといわれても問題ないですし,また,神との関連という観点から,ある実在性を有するといわれても同様に問題ないということになります。
コメント
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