スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&必然性の同一性

2008-07-24 20:22:41 | 将棋
 王位戦七番勝負第二局。深浦康市王位の封じ手は▲4四歩でした。
           
 ▲7三桂の両取りより,飛車の転換を視野に入れた指し方ではないかと思います。対する羽生善治名人の△4六歩は,その筋を緩和しようとの意図だったと思います。ただ実戦は,その歩を成り捨てて△4二歩と受ける展開になりましたので,少し損だったかもしれません。成り捨てを取った金が5六に進出し,飛車が4八に回りましたので,先手としては少なくとも満足できる展開だったのではないでしょうか。
           
 今日は遅くなって観戦していないのでこの後は省略。全体的には先手の攻め,後手の受けが主体の展開で第3図。こう▲5四銀と出たところでは先手の勝ちになっているようです。
           
 角を取っても銀を取っても後手は即詰みはありませんが,そこで先手玉を詰まさないといけないようです。実戦は角の方を取りましたが,打ち歩詰の形で先手玉はきわどく逃れていました。
 深浦王位が乱戦を制して1勝1敗に。第三局は31日から指されます。
 なおこの将棋の序盤,△3四歩を後回しにするといういきなり三間飛車の利点について,渡辺竜王が詳しく解説されています。これは参考になりますのでぜひお読みください。

 神のうちに月の十全な観念があるという場合には,それが神についてどのように考えられようとも同一の必然性で生じると考えられなければなりません。つまり神が絶対に無限な実体と考えられようとも,あるいは人間Aの精神の本性を構成する限りと考えられようとも,また人間Bの精神の本性を構成する限りで考えられようと,とにかくそのうちに月の観念があるならば,それは同一の必然性で生じます。
 なぜならば,十全な観念とは第二部定義四により真の観念であり,真の観念は第一部公理六によりその対象と一致するからです。したがって月の十全な観念が生じる必然性は,形相的に月が生じる必然性に一致するのです。このことは,単に第二部定理七に訴えるだけでも,少なくとも認識論的には成立するということになります。
 よって月の十全な観念というのは,どんな知性のうちにあっても,すなわち神の無限知性のうちにあろうと,人間Aの精神や人間Bの精神のような有限知性のうちにあろうと,同一の必然性で生じるという理屈になります。対象はひとつで,その同じ対象の真の観念=十全な観念ですので,これは直観的にも理解できることかもしれません。
 ここまでくればあとは簡単。人間の精神のうちにある月の表象像を月の混乱した観念とみた場合に,この混乱した観念は神のうちにある限りで十全な観念で,このふたつの観念が同一の必然性で生じることはすでに第二部定理三六の考察により明らかになっています。しかしその十全な観念は,人間の精神のうちにある十全な観念とも同一の必然性で生じます。よって,人間の精神のうちにあるXの混乱した観念とXの十全な観念が同一の必然性で生じるということが,表象像の場合にも成立するということになります。

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