盛岡競馬場は非常に大きな競馬場。今日はここでマーキュリーカップ(動画)が争われました。
長い直線でゆったりとした先行争い。高知のケイエスゴーウェイ,フィフティーワナー,エイシンロンバードという態勢に落ち着いたのですが,向正面に入るところでは外からエイシンロンバードが内の2頭を交わして先頭に立って,この馬の逃げ。フィフティーワナーが2番手に上がり,外から川崎のシンメイレグルスがこれをマークする位置に上がりました。
3コーナー手前ではフィフティーワナーが先頭に立ち,エイシンロンバードは後退。シンメイレグルスはいい手応えでこれについていったので,2頭のマッチレースになるのかと思いました。
しかし直線に入って追われると,シンメイレグルスは思ったほどの伸びがありません。替わって中団からエイシンロンバードが後退するところで3番手まで上がっていたサカラートが,シンメイレグルスを交わすとフィフティーワナーも捕えて優勝。フィフティーワナーが2着。シンメイレグルスは最後はヤマトマリオンにも交わされ,離された3着にはヤマトマリオンが入っています。
優勝したサカラートは実に2005年の日本テレビ盃以来となる久々の勝利で重賞4勝目。この馬はスカーレットインクの一族で,昨年のJRA賞最優秀ダート馬,またNARグランプリの特別表彰馬にも選出されたヴァーミリアンの半兄になります。このところは勝てないまでも掲示板は外してなく,ここではフィフティーワナーと共に実力上位で,順当な結果。往時の力はないと思うのですが,このくらいのメンバー構成であればまだ勝てるということでしょう。
鞍上は中舘英二騎手,管理するのは石坂正調教師で,マーキュリーカップは共に初優勝となっています。
ここでもう1度,スピノザによる第二部定理三六の部分的証明をみてみると,スピノザが最後の段階でこの定理の証明を,第二部定理六系に関連付けているのが目を引きます。これは次のような長い系です。
「この帰結として―思惟の様態でない事物の形相的有は,神の本性がそれらの事物を前もって認識したがために神の本性から起こるのではない,むしろ観念の対象たる事物は,観念が思惟の属性から生ずる(我々が示したように)のと同一の仕方・同一の必然性をもって,それ自身の属性から起こりあるいは導き出される―ということになる」。
若干の説明を加えておけば,まず最初のこの帰結としてというのは,これは第二部定理六系なのですから,第二部定理六の帰結としてという意味に理解するべきでしょう。次にスピノザは我々が示したようにといっている点については,第二部定理六と考えてもいいですが,第二部定理五がさらにいいと思います。
この定理は,それ自体でみるならば,形相的事物の有は,神によるそれらの事物の認識とは何の因果関係ももたないということ,別のいい方をするならば,形相的自然というものは,神の認識とか意志によって生じるのではなく,もっと別の法則によって生じるということをいっているように思えます。しかし,この系をこのような意味に考えたとき,スピノザはなぜ第二部定理三六の証明の最後に,この系に訴えようとしたかがいささか疑問に感じられます。そこで今度はこの部分を考えてみましょう。
長い直線でゆったりとした先行争い。高知のケイエスゴーウェイ,フィフティーワナー,エイシンロンバードという態勢に落ち着いたのですが,向正面に入るところでは外からエイシンロンバードが内の2頭を交わして先頭に立って,この馬の逃げ。フィフティーワナーが2番手に上がり,外から川崎のシンメイレグルスがこれをマークする位置に上がりました。
3コーナー手前ではフィフティーワナーが先頭に立ち,エイシンロンバードは後退。シンメイレグルスはいい手応えでこれについていったので,2頭のマッチレースになるのかと思いました。
しかし直線に入って追われると,シンメイレグルスは思ったほどの伸びがありません。替わって中団からエイシンロンバードが後退するところで3番手まで上がっていたサカラートが,シンメイレグルスを交わすとフィフティーワナーも捕えて優勝。フィフティーワナーが2着。シンメイレグルスは最後はヤマトマリオンにも交わされ,離された3着にはヤマトマリオンが入っています。
優勝したサカラートは実に2005年の日本テレビ盃以来となる久々の勝利で重賞4勝目。この馬はスカーレットインクの一族で,昨年のJRA賞最優秀ダート馬,またNARグランプリの特別表彰馬にも選出されたヴァーミリアンの半兄になります。このところは勝てないまでも掲示板は外してなく,ここではフィフティーワナーと共に実力上位で,順当な結果。往時の力はないと思うのですが,このくらいのメンバー構成であればまだ勝てるということでしょう。
鞍上は中舘英二騎手,管理するのは石坂正調教師で,マーキュリーカップは共に初優勝となっています。
ここでもう1度,スピノザによる第二部定理三六の部分的証明をみてみると,スピノザが最後の段階でこの定理の証明を,第二部定理六系に関連付けているのが目を引きます。これは次のような長い系です。
「この帰結として―思惟の様態でない事物の形相的有は,神の本性がそれらの事物を前もって認識したがために神の本性から起こるのではない,むしろ観念の対象たる事物は,観念が思惟の属性から生ずる(我々が示したように)のと同一の仕方・同一の必然性をもって,それ自身の属性から起こりあるいは導き出される―ということになる」。
若干の説明を加えておけば,まず最初のこの帰結としてというのは,これは第二部定理六系なのですから,第二部定理六の帰結としてという意味に理解するべきでしょう。次にスピノザは我々が示したようにといっている点については,第二部定理六と考えてもいいですが,第二部定理五がさらにいいと思います。
この定理は,それ自体でみるならば,形相的事物の有は,神によるそれらの事物の認識とは何の因果関係ももたないということ,別のいい方をするならば,形相的自然というものは,神の認識とか意志によって生じるのではなく,もっと別の法則によって生じるということをいっているように思えます。しかし,この系をこのような意味に考えたとき,スピノザはなぜ第二部定理三六の証明の最後に,この系に訴えようとしたかがいささか疑問に感じられます。そこで今度はこの部分を考えてみましょう。