少し間が開いてしまいました。今回は②よりさらに遡り,1961年の名人戦第二局。僕の将棋キャリア以前,というよりそもそも僕が産まれる前の将棋です。
何とも形容し難い力戦相居飛車から後手が攻めたものの,やや細く,先手が有利ではないかと思える局面が第1図。☖7四銀と打ってとにかく上部を押さえたところです。
ここで先手は攻防とばかりに☗6二飛と打ち込みましたがこれがポカ。☖5一金と打たれ,打ったばかりの飛車の行き場がありません。仕方ないので先手は☗7三とと引きましたが,そこですぐには☖6二金と取らず,☖8五角☗7七玉の交換を入れてから☖6二金。以下☗7四と☖同角と進んだ第2図は,先手から後手に迫るのが難しく,後手は取り残されていた8一の桂馬も攻めに使えそうな形となり,後手優位となりました。実戦も後手が勝っています。
厳密にいいますと,この場合は先手は銀を1枚取っていますので,打った飛車をただ取られてしまったというわけではありません。ただ,敵陣に打ち込んだ大駒が一手で行き場を失ってしまうというのは,アマチュアならともかくプロではとても珍しく,それも名人戦という大舞台で生じたものだけに,この項で紹介してみました。
王位戦は振駒で羽生善治名人の先手。深浦康市王位は一手損角換りを採用,第3図の形から相腰掛銀に。右の金を4七に繰り出したのはおそらく先手の工夫。封じ手の局面ですが,3筋の突き捨てを入れていないので,おそらく☗4六歩と打つことになるのではないかと思います。
同じ人間の精神mens humanaのうちに,Xの十全な観念idea adaequataとXの混乱した観念idea inadaequataが同時にあるということがあり得るということについて,もしも『エチカ』に訴えるのであれば,それは第四部定理一になるのではないかと僕は思います。
「誤った観念が有するいかなる積極的なものも,真なるものが真であるというだけでは,真なるものの現在によって除去されはしない」。
この定理Propositioは真の観念idea veraと誤った観念idea falsaとの関係で記述されていますが,内的特徴denominatio intrinsecaでみれば真の観念は十全な観念であり,誤った観念は混乱した観念ですので,その関係に置き換えることはまったく問題がありません。そこでこの定理は,十全な観念が十全な観念として含んでいる十全性は,混乱した観念を排除する原因causaとはならないということを意味します。よってこのことから,ある人間の精神のうちに,Xの十全な観念があるからといって,これはこの同じ人間の精神のうちのXの十全な観念を排除する原因とはならないので,Xの十全な観念を有している場合にも,この人間は同時にXの混乱した観念を有し得るということになります。これは僕がかつて,人間による月の表象の場合という具体例で示したことに該当します。よってまず,この限りにおいて,人間の精神のうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時にあり得るということは明らかになりました。
なお,この第四部定理一に関しては,かつて別のテーマで証明しましたので,ここでは証明Demonstratioに関しては省略することにします。
何とも形容し難い力戦相居飛車から後手が攻めたものの,やや細く,先手が有利ではないかと思える局面が第1図。☖7四銀と打ってとにかく上部を押さえたところです。
ここで先手は攻防とばかりに☗6二飛と打ち込みましたがこれがポカ。☖5一金と打たれ,打ったばかりの飛車の行き場がありません。仕方ないので先手は☗7三とと引きましたが,そこですぐには☖6二金と取らず,☖8五角☗7七玉の交換を入れてから☖6二金。以下☗7四と☖同角と進んだ第2図は,先手から後手に迫るのが難しく,後手は取り残されていた8一の桂馬も攻めに使えそうな形となり,後手優位となりました。実戦も後手が勝っています。
厳密にいいますと,この場合は先手は銀を1枚取っていますので,打った飛車をただ取られてしまったというわけではありません。ただ,敵陣に打ち込んだ大駒が一手で行き場を失ってしまうというのは,アマチュアならともかくプロではとても珍しく,それも名人戦という大舞台で生じたものだけに,この項で紹介してみました。
王位戦は振駒で羽生善治名人の先手。深浦康市王位は一手損角換りを採用,第3図の形から相腰掛銀に。右の金を4七に繰り出したのはおそらく先手の工夫。封じ手の局面ですが,3筋の突き捨てを入れていないので,おそらく☗4六歩と打つことになるのではないかと思います。
同じ人間の精神mens humanaのうちに,Xの十全な観念idea adaequataとXの混乱した観念idea inadaequataが同時にあるということがあり得るということについて,もしも『エチカ』に訴えるのであれば,それは第四部定理一になるのではないかと僕は思います。
「誤った観念が有するいかなる積極的なものも,真なるものが真であるというだけでは,真なるものの現在によって除去されはしない」。
この定理Propositioは真の観念idea veraと誤った観念idea falsaとの関係で記述されていますが,内的特徴denominatio intrinsecaでみれば真の観念は十全な観念であり,誤った観念は混乱した観念ですので,その関係に置き換えることはまったく問題がありません。そこでこの定理は,十全な観念が十全な観念として含んでいる十全性は,混乱した観念を排除する原因causaとはならないということを意味します。よってこのことから,ある人間の精神のうちに,Xの十全な観念があるからといって,これはこの同じ人間の精神のうちのXの十全な観念を排除する原因とはならないので,Xの十全な観念を有している場合にも,この人間は同時にXの混乱した観念を有し得るということになります。これは僕がかつて,人間による月の表象の場合という具体例で示したことに該当します。よってまず,この限りにおいて,人間の精神のうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時にあり得るということは明らかになりました。
なお,この第四部定理一に関しては,かつて別のテーマで証明しましたので,ここでは証明Demonstratioに関しては省略することにします。