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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

続・速さの表象&対象が無の観念

2008-07-26 20:37:18 | 哲学
 先月のことになりますが,速さの表象というエントリーで,僕たちが何を速いと判断するのかということにも絶対的な基準はなく,各々の人間の表象のあり方に左右されることを僕なりに示しました。今日はさらに別の例を用いて,この考え方をさらに補足することにしましょう。
 人間Aと人間Bが10キロの競走をすると仮定します。Aは途中で10分の休みを3度挟み,1時間で10キロを走り終え,人間Bは一度も休まずに55分でゴールしたとしましょう。この条件でAとBのどちらが速かったかと問われるならば,多くの人がBの方が速かったと答えるのではないかと思います。
 しかし,単に物体としての運動として考えるならば,この両者の運動の関係は,前回の電車Xと電車Yの関係と何ら変わるところがありません。実際,10キロ先のゴールにはBが先に到達しますが,走っているときだけの平均速度はAの方が上回りますし,少なくとも最初にAが休憩する地点までは,Aの方がBよりも先行しているものと予測できます。
 電車の場合にはXとYのどちらも速いと判断できるのに,人間の場合にはBの方が速いと大概は判断されるのは,この場合は10キロの競走をするという条件が設定されているからです。すなわち僕たちは何が速いということを判断する際には,ただ運動する物体だけに注目するのではなく,物体が運動する条件までも考慮に入れるのです。速さには絶対的基準がないということが,このことからも理解できるのではないかと思います。

 明日は小松島記念2日目優秀のよしこの賞。並びは金子-加藤-古田-北野の中部,渡部-小倉-堤の四国,そして井上に市田。これは中部から。

 人間の精神のうちに,形相的には無であると考えられるような観念が混乱した観念としてある場合,すなわち具体的にはこりん星の観念とかペガサスの観念というのが人間の精神のうちに形成されるというときに,まず重視しなければならないことは,第二部定理一一系により,人間の精神というのは神の無限知性の一部なのですから,人間の精神のうちにある観念については,それがどんな観念であろうとも,神の無限知性のうちになければならないということであり,かつ神の無限知性のうちに含まれる観念は,第二部定理七系の意味により十全な観念でなければならないということです。よってある人間の精神の一部が,こりん星の観念なりペガサスの観念なりによってその一部を構成されるならば,そしてこうした混乱した観念によってある人間の精神の一部が構成されるということは現実的にあるわけですが,この場合には神の無限知性のうちに,こりん星の十全な観念もペガサスの十全な観念もあるのでなければならないということになります。
 しかしこのことは,月の場合と同様の仕方で説明することができません。というのは月というのは形相的に有である,すなわちそれ自体で神の延長の属性のうちに必然的に存在する物体ですから,第二部定理六系に訴えることにより,第二部定理三六でいわれている混乱した観念の必然性の問題も直接的に回避できます。しかし,こりん星とかペガサスというのは,それ自体で形相的に考えればこれは無ですから,神の延長の属性のうちには,それ自体では実在することが不可能です。したがってこれら対象を形相的には有さない観念については,さらに別の仕方で考える必要があることになります。
コメント (8)
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