スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

打ち歩詰&部分的証明

2008-07-17 19:02:09 | 将棋トピック
 図は先週の金曜に指された順位戦B級1組3回戦のうちの一局の投了の局面です。
           
 4二にいた角で1五の香車を不成で取ったところ。今日は将棋の紹介ではないのでそれは渡辺竜王の自戦記を参照してください。
 角が成れるのに不成で取ったのは,後手から△1六歩と打たせないため。成っても先手の勝ちだと思いますが,成ると△1六歩と打てますので,後手にさらに手を与えてしまいます。そこで不成なのですが,これが可能なのはもちろん,将棋ではここで△1六歩と打つ手が打ち歩詰という反則だからです。
 かつて羽生善治名人は,打ち歩詰が反則でないなら将棋は先手必勝と発言したことがありました。将棋のルールは長い年月を重ねて積み上げられてきたものだから,打ち歩詰が反則とされているのにも根拠があり,その根拠が,これを認めると先手が必勝となってしまうからではないかという類推であったようです。
 これとは別に,僕は打ち歩詰のルールの成立に関してある仮説をもっています。僕は打ち歩詰禁止のルールというのは,本将棋ではなく,詰め将棋から出現したルールではないかと想像しているのです。詰め将棋をより難しく,より面白く,より複雑にするために,打ち歩詰禁止という規則が設けられたという仮説です。確かに打ち歩詰が禁止でないとしたら,詰め将棋の面白さというのはいくらか減じるのではないかと思います。しかし本将棋の場合には,打ち歩詰がOKであったとしても,その面白さはあまり変わらないような気がしますし,少なくともそれが減じる程度は,詰め将棋ほどではないような気がします。
 かなり突拍子もないような仮設で,やはり常識的には将棋のルールは本将棋から発生したと考えるのが本筋でしょう。ただ,こういう考え方もあるということで,あえて僕の仮説を紹介してみました。

 明日は棋聖戦五番勝負第五局。勝った方が棋聖獲得となる大一番です。

 この必然性の問題をどう考えるのかということに関しては,スピノザ自身がこの第二部定理三六をどう考えているのかということを理解するのが重要です。しかしこの定理は僕の中で疑問の残る定理ですから,そのこと自体を僕は十分に理解できていません。そこでスピノザによるこの定理の理解の一端を探るために,ここではこの定理のスピノザによる証明を,ごく部分的に考えてみるということにします。
 まずスピノザは,すべての観念は神のうちにあるのだと主張します。これは第一部定理一五に依拠します。これは問題ありません。そして次に,観念というのは神に関する限り,これは神のうちにあると考えられる限りにおいて,という意味に置き換えられるかと思いますが,すべて真の観念であるといいます。これは第二部定理三二に依拠していて,やはり問題ありません。同時にここでは,真の観念が内的特徴からみられるならそれは十全な観念であるということはすでに考察の前提としていますから,同時にこの限りにおいては観念はすべて十全な観念であるということも問題ありません。スピノザはこの点については当然のように第二部定理七系に訴えますが,ここでは第二部定義四を考えるだけでも十分かと思います。
 第二部定理三六を証明するにあたり,スピノザがその証明の前提としていると僕が考える事柄はこれだけです。そこで,この前提からこの定理が証明されるとするならば,混乱した観念についてそれが必然的に生じるとこの定理において言及されていることに,どのような結論を与え得るのかということが,現在の考察との関連では重要であるということになるでしょう。
コメント
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