スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

お~いお茶杯王位戦&対峙

2021-07-02 19:09:12 | 将棋
 6月29日と30日に名古屋能楽堂で指された第62期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が1勝,豊島将之竜王が6勝。
 振駒で藤井王位の先手となり相掛かり。先手が縦歩を取る展開に進みました。
                                         
 先手が1筋の歩を取り込んだのに対して後手の豊島竜王も9筋の歩を取り込んだ局面。ここで☗8七歩と打って1日目が終了しました。☗9八歩と打った方がよかったようですが,先手が先に端を取り込んだのに受けなければならないのでは,すでに先手が苦しい局面であったように思います。先手は飛車の動きで手損をしていますので,そのあたりが問題だったということになるのではないでしょうか。
 封じ手は当然の☖7六飛。先手は先に取り込んだことを生かして☗1三歩成☖同香☗1四歩☖同香☗同飛と進めました。そこで受けずに☖9七歩成。
                                         
 これが強手で後手が優勢を決定づけました。ここからは後手が一方的に押し切っています。
 豊島竜王が先勝。第二局は13日と14日に指される予定です。

 僕は人間中心主義と本性中心主義が対峙する場面では,本性中心主義の方を選択します。その理由は,この場面では本性中心主義の方を選択することが,スピノザの哲学を誤らずに理解できると考えるからです。しかしこれでは同義反復にすぎません。ですから,人間中心主義と本性中心主義が相反する場面で,本性中心主義を選択する方が,スピノザの哲学を正しく理解することに役立つと僕が考えているのはなぜかということをここから説明していきます。最初にいっておけば,この根拠というのはふたつあります。
 最初の根拠は,スピノザが諸々の様態modusの間に,いい換えればすべての所産的自然Natura Naturataの間に,優越性に関する差異があるということを否定しているという点にあります。この観点は,原理的には次のような論理構造になっています。
 まず第二部定義二により,すべての事物,したがってすべての様態は,その様態の本性essentiaがなければあることも考えるconcipereこともできないものです。いい換えれば,どんな様態を抽出したとしても,その様態にはその様態に固有の本性というのがあります。それが固有の本性であると断定することができるのは,同じ定義Definitioによって,事物の本性というのはその事物がなければあることも考えることもできないものであるからです。
 次に,この定義の意味によって,一般に事物の本性は,その事物が存在することを鼎立するものであって,その事物の存在existentiaを排除するものではありません。したがって様態Aがあるとすれば,様態Aの本性は様態Aが存在するということを鼎立しますが,排除することはありません。ところで,存在することはそれ自体が力potentiaであり,存在し得ないということは力と真逆の意味において無能力impotentiaです。これはスピノザが第一部定理一一の第三の証明で指摘していることでもあります。よって事物の本性が,その事物が存在するということを鼎立するものである以上,事物の本性は,力という観点からみた場合にはその事物の実在性realitasにほかなりません。そして第二部定義六により,事物の実在性は事物の完全性perfectioと同じです。つまり事物の本性は,力という観点からみる限り,その事物の完全性を意味することになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする