スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑰-9&第五部定理三九備考

2021-07-13 18:47:52 | ポカと妙手etc
 ⑰-8の第2図で僕が異変を悟ったのは,次のような事情からです。
 この局面は先手の手番ですから,攻める手を考えたいところです。ところが⑰-2で後手が打った角が,この局面で後手玉の上部の守備に役立つ駒になっています。このために上から攻める手はすべて無効です。
 上から攻めるのが無効なら横から攻めるほかありません。☗2一飛と打つ手が最も厳しそうですが,これには☖1二角が王手飛車。☗2三飛打と受けるほかないでしょうが☖同角は王手ですから☗同飛成とせざるを得ず,これは攻めになりません。
 ☗3一飛と打てば王手飛車は防げますが,☖4一金と引く手があります。☗同飛成でただですがそこで☖2三角が王手龍取りでこれもダメ。かといって☗1一飛成では攻めとして無効です。
 つまりここでは先手から有効な攻めがありません。なので僕も逆転しているということにやっと気付いたのです。
 実戦は☗6七玉と逃げました。
                                        
 しかしこれでは先手に勝ち目があるとは思えず,この指し手をみて,逆転していることを確信しました。
 第1図以下は☖6四桂☗5七歩☖5九角成で先手玉は受けなし。☗9二歩☖8二王まで指して先手の投了となりました。
                                        
 最後は⑰-4で打った桂馬まで攻めに働くという将棋でした。

 第五部定理三九で有能といわれているとき,それが能動的であるということを意味するのなら,この定理Propositioの全体の意味は,きわめて多くのことに能動的な身体corpusを有する人間の精神mens humanaは,その最大部分が永遠aeterunusであるということになります。これはスピノザが第三部定理五七備考で,単に非理性的動物と人間との間の楽しみの相違についてだけ言及しようとしているのではなく,同じ人間であっても,酔漢と哲学者との間にある楽しみの相違について言及しようとしているということと,相通ずる要素があるということができるでしょう。すなわち,酔漢の身体と比較した場合には,哲学者の身体の方が多くのことに能動的であるので,哲学者の精神は,酔漢の精神よりも最大部分が永遠であるということを,スピノザはここではいいたいのだということです。スピノザはこの近辺では哲学者と酔漢という例示はしていませんが,この定理の直後の備考Scholiumで別の例を示しています。
 「この人生において,我々は特に,幼児期の身体を,その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り,他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体,そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体,に変化させるように努める」。
 ここで幼児期の身体とされているのは,きわめて受動的な身体のことです。現実的に考えても,人間は幼児の間は,自分の身体を能動的に用いること,いい換えれば,自分の身体を十全な原因causa adaequataとして何事かをなすということは,不可能ではないにしても,きわめてわずかな事柄しかできないといえるでしょう。一方,スピノザが努めるconariというとき,それは傾向conatusすなわちコナトゥスconatusを意味するので,必然的にnecessarioそうなっていくということを含意し得るのですが,人間はとくに意図をせずとも,成長と共に,自身の身体を十全な原因とすることを,増加させていくことになるのです。
 ここからも分かるように,第五部定理三九でも,スピノザはある人間の身体と別の人間の身体,あるいは同じ人間の幼少期の身体と成長後の身体の比較をすることを主眼としているのです。あるいは精神の比較を主眼としているのです。
コメント
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