第163回天皇賞(春)。北村友一騎手が2レースで落馬し,肋骨を骨折した疑いがあり病院に搬送されたためにディアスティマは坂井瑠星騎手に変更。
オセアグレイトはすぐに控えました。逃げようとしたのはディアスティマとジャコマルの2頭。内のディアスティマが逃げてジャコマルは2番手に。3番手はカレンブーケドール,シロニイ,ディープボンドの3頭でこの5頭が先行集団を形成。2馬身差でアリストテレスとゴースト。2馬身差でワールドプレミアとウインマリリン。1馬身差でメイショウテンゲン。3馬身差でマカヒキとメロディーレーン。3馬身差でオーソリティ。4馬身差でユーキャンスマイル。1馬身差でナムラドノヴァン。1馬身差でディバインフォース。4馬身差の最後尾にオセアグレイトと,発馬後の向正面でかなり縦に長い隊列になりました。最初の1000mは59秒8のハイペース。
逃げたディアスティマが2周目の向正面で一旦は差を広げ,3コーナーに向ってまた差が詰まっていくというレース。ジャコマルはここで一杯になり,カレンブーケドールが単独の2番手に。これを外からディープボンドが追い,ディープボンドをマークするようにアリストテレス。さらにワールドプレミアとウインマリリンも追い上げてきました。直線に入るとディアスティマが一杯になり,カレンブーケドールが先頭に。ディープボンドは迫ってきましたが,アリストテレスはスピードアップするのにもたもたしました。その外から伸びてきたのがワールドプレミアで,カレンブーケドールを差したディープボンドも差し切ってレコードタイムで優勝。ディープボンドが4分の3馬身差で2着。早め先頭のカレンブーケドールが2馬身差の3着で,フィニッシュ前でようやく伸びてきたアリストテレスがアタマ差の4着。
優勝したワールドプレミアは一昨年の菊花賞以来の勝利で大レース2勝目。この馬は菊花賞後の有馬記念で3着になった後,休養に入って復帰したのが昨年のジャパンカップ。このときのレースの内容から能力の減退はないとみていました。ここはアリストテレスが最有力候補で逆転候補の筆頭がこの馬と考えていましたので,優勝は能力通りで順当なものと解していいと思います。おそらく各馬の位置取りが結果の明暗を分けた面があり,この馬の位置がこのレースを勝つのには最適だったということではないでしょうか。その意味では騎手のファインプレーがあっての優勝ともいえそうです。父は第133回を勝ったディープインパクトで父仔制覇。7つ上の全兄に2012年にきさらぎ賞,2014年にマイラーズカップを勝ったワールドエース。
騎乗した福永祐一騎手は昨年の菊花賞以来の大レース38勝目。天皇賞(春)は初勝利で第148回以来の天皇賞2勝目。管理している友道康夫調教師は一昨年の香港マイル以来の大レース15勝目。国内では一昨年の菊花賞以来。第137回以来となる13年ぶりの天皇賞(春)2勝目。天皇賞も2勝目。
柏葉の論文の本格的な考察に入る前に,神の観念idea Deiのスピノザの哲学における身分を考察しました。その中で,第二部定理七系でいわれている神の観念Dei ideaからその意味を探求するなら,それは思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然Natura Naturansということになると僕はいいました。第二部定理八は,その系の次の定理Propositioです。そして思惟の属性の能産的自然とは,思惟の属性そのもののことにほかなりません。ですからこうした配置の意図があったとすれば,第二部定理八の神の無限な観念というのも,思惟の属性と等置することができることになります。柏葉が神の無限な観念を思惟の属性と等置しているというのは,柏葉が明言しているわけではなく,僕の解釈ではそうなっているということではありますが,この解釈はこれらの強みをもっているといえます。
逆に,この解釈が抱えている弱みというのは,僕が神の観念の身分を考察したときにいったことの中にあります。すなわち,第二部定義三からして,観念というのは観念の対象ideatumが何であるのかということとは関係なく,思惟の属性の所産的自然Natura Naturataとみなされなければならないと考えられます。よってそれに則していえば,いかに神の無限な観念といえども,観念である以上は能産的自然ではなく所産的自然,つまり思惟の属性そのものではなく思惟の属性の様態modiと考えるべきだということになるでしょう。
僕はこの神の無限な観念の身分については,ここでは明確な結論を出すことはしません。したがって,柏葉の主張が正しいとも誤っているともいいませんし,標準的解釈,神の無限の観念を無限知性intellectus infinitusと等置する解釈についてもそれが正しいとも誤っているともいいません。少なくとも僕がそうしているように,個物res singularisの形相的本性essentia formalisと個物の現実的本性actualis essentiaを異なった本性であると解する限りでは,神の無限な観念を無理なく無限知性と等置することができます。いい換えればそれが区別の規準と齟齬を来すことはありません。ですから標準的解釈を否定する必要もないと考えるからです。さらにいえば,区別の規準を僕の手法で満たすなら,この神の無限な観念は,思惟の属性でも無限知性でもなく,思惟の属性の間接無限様態と解することもまた可能でしょう。
オセアグレイトはすぐに控えました。逃げようとしたのはディアスティマとジャコマルの2頭。内のディアスティマが逃げてジャコマルは2番手に。3番手はカレンブーケドール,シロニイ,ディープボンドの3頭でこの5頭が先行集団を形成。2馬身差でアリストテレスとゴースト。2馬身差でワールドプレミアとウインマリリン。1馬身差でメイショウテンゲン。3馬身差でマカヒキとメロディーレーン。3馬身差でオーソリティ。4馬身差でユーキャンスマイル。1馬身差でナムラドノヴァン。1馬身差でディバインフォース。4馬身差の最後尾にオセアグレイトと,発馬後の向正面でかなり縦に長い隊列になりました。最初の1000mは59秒8のハイペース。
逃げたディアスティマが2周目の向正面で一旦は差を広げ,3コーナーに向ってまた差が詰まっていくというレース。ジャコマルはここで一杯になり,カレンブーケドールが単独の2番手に。これを外からディープボンドが追い,ディープボンドをマークするようにアリストテレス。さらにワールドプレミアとウインマリリンも追い上げてきました。直線に入るとディアスティマが一杯になり,カレンブーケドールが先頭に。ディープボンドは迫ってきましたが,アリストテレスはスピードアップするのにもたもたしました。その外から伸びてきたのがワールドプレミアで,カレンブーケドールを差したディープボンドも差し切ってレコードタイムで優勝。ディープボンドが4分の3馬身差で2着。早め先頭のカレンブーケドールが2馬身差の3着で,フィニッシュ前でようやく伸びてきたアリストテレスがアタマ差の4着。
優勝したワールドプレミアは一昨年の菊花賞以来の勝利で大レース2勝目。この馬は菊花賞後の有馬記念で3着になった後,休養に入って復帰したのが昨年のジャパンカップ。このときのレースの内容から能力の減退はないとみていました。ここはアリストテレスが最有力候補で逆転候補の筆頭がこの馬と考えていましたので,優勝は能力通りで順当なものと解していいと思います。おそらく各馬の位置取りが結果の明暗を分けた面があり,この馬の位置がこのレースを勝つのには最適だったということではないでしょうか。その意味では騎手のファインプレーがあっての優勝ともいえそうです。父は第133回を勝ったディープインパクトで父仔制覇。7つ上の全兄に2012年にきさらぎ賞,2014年にマイラーズカップを勝ったワールドエース。
騎乗した福永祐一騎手は昨年の菊花賞以来の大レース38勝目。天皇賞(春)は初勝利で第148回以来の天皇賞2勝目。管理している友道康夫調教師は一昨年の香港マイル以来の大レース15勝目。国内では一昨年の菊花賞以来。第137回以来となる13年ぶりの天皇賞(春)2勝目。天皇賞も2勝目。
柏葉の論文の本格的な考察に入る前に,神の観念idea Deiのスピノザの哲学における身分を考察しました。その中で,第二部定理七系でいわれている神の観念Dei ideaからその意味を探求するなら,それは思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然Natura Naturansということになると僕はいいました。第二部定理八は,その系の次の定理Propositioです。そして思惟の属性の能産的自然とは,思惟の属性そのもののことにほかなりません。ですからこうした配置の意図があったとすれば,第二部定理八の神の無限な観念というのも,思惟の属性と等置することができることになります。柏葉が神の無限な観念を思惟の属性と等置しているというのは,柏葉が明言しているわけではなく,僕の解釈ではそうなっているということではありますが,この解釈はこれらの強みをもっているといえます。
逆に,この解釈が抱えている弱みというのは,僕が神の観念の身分を考察したときにいったことの中にあります。すなわち,第二部定義三からして,観念というのは観念の対象ideatumが何であるのかということとは関係なく,思惟の属性の所産的自然Natura Naturataとみなされなければならないと考えられます。よってそれに則していえば,いかに神の無限な観念といえども,観念である以上は能産的自然ではなく所産的自然,つまり思惟の属性そのものではなく思惟の属性の様態modiと考えるべきだということになるでしょう。
僕はこの神の無限な観念の身分については,ここでは明確な結論を出すことはしません。したがって,柏葉の主張が正しいとも誤っているともいいませんし,標準的解釈,神の無限の観念を無限知性intellectus infinitusと等置する解釈についてもそれが正しいとも誤っているともいいません。少なくとも僕がそうしているように,個物res singularisの形相的本性essentia formalisと個物の現実的本性actualis essentiaを異なった本性であると解する限りでは,神の無限な観念を無理なく無限知性と等置することができます。いい換えればそれが区別の規準と齟齬を来すことはありません。ですから標準的解釈を否定する必要もないと考えるからです。さらにいえば,区別の規準を僕の手法で満たすなら,この神の無限な観念は,思惟の属性でも無限知性でもなく,思惟の属性の間接無限様態と解することもまた可能でしょう。