大阪など3つの府県がまん延防止等重点措置(アタマ悪そうに見えるので、『蔓延』って漢字で書いてほしい)とやらで、まだまだ飲食店の受難は続きますね。特に大手ね。誰しもこの理不尽な国難を乗り切って行きたいものです。
今は特にどの分野でも美味しい店がいっぱいあって、外食産業が割り食うのは実に気の毒なのですが、そういえば私が子供の時分の外食は、美味しいところが少なかったように思えます。
さすがに戦中の食糧難のようなことはありませんでしたが、戦争が終わって15年そこそこで生まれた世代ですから、食べるものは十分あった時代ながら、今考えてみると外食で旨いものは少なかったかな。
祖母たちからは「今の子は、ウナギやお寿司が食べられるんだから幸せ」と言われ、そんなものかと思った覚えがあります。
周りから、そう言われて「自分は裕福なんだ」と思いながら育っていったものの、今考えると、6人家族だった小暮家の家計はけっこう大変だったようです。
母は一度揚げ物に使った小麦粉を戻して使っていたし、 揚げ油も臭いがするほど何度も使っていましたからね。まあ、子供はいい気なものでした。
いい気なものだったのはバカ息子だけでなく、親父もそうだったようで、母が必死でやりくりしていたのを、今考えてみるとあまりわかってなかったようです。
なにしろやかんのお湯を沸かすのに、「これどうやってやるんだ?」と母に聞いて仰天させたほどの人でしたから。
家では食べ物の旨い不味いを言ったことのない父でしたが、一度だけ外食で激怒したことがあります。
「しゃぶしゃぶ」なるものが巷にはやりはじめた時だったでしょうか。
家族で新宿のとあるしゃぶしゃぶ専門店に入ったのですが、まさに期待はずれ。
あっと言う間に食べたはいいけど、 牛肉がまだ高価だった時代です。食べ盛りだった私たちには物足らず、味もイマイチだったような記憶がありました(なにしろ、どんな味だったかまったく覚えていない)。
さらに取り皿を頼んだら、なんと鍋の蓋を出してきたのに、とうとう父は激怒。
店の人に「キミ、これはどういうことかね?」と問い詰めてみたものの、もう注文はすべて食べ終わっていたのですから、あとの祭りです。
覚えているのは、親父がカンカンになって怒っていたことと、店を出た時にまだおなかが空いていたこと。たぶん、どこか別の店で食べたのか、家で何か食べたのか、その後の記憶はまったくありません。
もちろん、その店はとっくになくなってしまいましたが、父はその後何十年も「しゃぶしゃぶ」なるものを口にせず。まあ、食い物のうらみは恐ろしいとはよくぞ言ったものです。
でも亡くなる何年か前に、京都から取り寄せたハモのしゃぶしゃぶは「旨い旨い」と食べてくれたな。ほんとはしゃぶしゃぶは美味しい料理なんだよね。
でも私が記憶する限り、東京周辺の外食事情がよくなったのは、バブル崩壊後だったでしょうか。それまでは、いきなり店に入って旨かったためしはないくらい、不味い店が多かった気がします。
特にディスコに出てくるビュッフェは、のびたスパゲッティとか、油ビタビタのソーセージとか、今食べようと思って食べられないようなものが出てましたからね。
不味かったら、客が来ない時代になって、飛躍的に東京の外食は美味しくなったように思えます。
今の外食産業の受難に、それを当てはめるのは酷な話だと思いますが、どのお店も涙ぐましいほどの努力と精進を重ねてますね。
頑張っているお店が報われる日が早く来るよう、祈るばかりです。