漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

電子書籍

2010年11月07日 | 消え行くもの
 先日、村上龍氏と吉本ばなな氏が、電子書籍の出版社を設立するというニュースがあった。それと呼応するようにして、さまざまな電子出版への参入のニュースもあった。電子出版がいよいよ加速してきそうだ。
 作家が主体となって電子出版を行うというのは、つまり中抜きの出版を行うということで、これは最初から予想されていた流れだろうが、長い目でみて果たして成功するのかは、わからないというのが実情だろう。なんとなくだが、一部の作家を除いては、あまり成功するとは思えない。一冊の本が完成するまでには、様々な人が関わるわけだし、本屋でふと手にとって購入という機会そのものが失われてしまっては、名前が広がるのが今以上に困難になるように思える。そもそも日常的に本を読む人の数がそれほど多くはないし、そうした人々はかなりの割合で、本というものそのものを愛しているというところがあるように思えるからだ。それでもこうした流れは、これからは常に存在しつづけるのだろうし、しばらくは色々とややこしいことになりながら、然るべきところに落ち着いて、共存してゆくことになるだろう。アメリカ並に、代理人のようなものがつくのが普通になってゆくのかもしれない。
 僕は読書端末として、amazonのkindleを利用しているが、はっきり言って、とても使い勝手がいい。最近では本の代わりに常にkindleを持ち歩いているくらいだ。英語があまり得意というわけではないので、これまでは絶版になってしまった翻訳本を探して古書店やネットを覗いていたが、英辞郎が利用できるkindleがあるとなると、原文で読もうという気になる。著作権の切れているものにかんしては、かなりの数の本が無料で手に入ってしまうのだから、ありがたい。日本の本に関しても、著作権のきれたものに関しては、青空文庫のファイルからコンバートして取り込んでしまえばいいし、しかもとても読みやすい。一度これに慣れてしまうと、もう戻れない気がしてしまう。
 しばらくkindleを使ってきた感想としては、小説本に関して言えば、本より電子書籍の方がずっと読みやすいような気がする。特に、読み捨ててしまうような娯楽ものに関しては、読み終えたら削除してしまえばいいのだから、便利である。あとは、現在僕が主に利用しているような、著作権が切れている古典を読む場合にも、端末は優れた威力を発揮する。そうした本に関して言えば、読む前から読者はだいたいの内容について、何らかの予備情報を持って望むわけだし、ちょっとした資料のようなつもりで読むことも多い。だから電子書籍の形態でちょうどいいくらいなのだ。実際のところ、僕にはkindleが時々岩波文庫のような気がしてくるほどだ。
 電子化して、意外と使えないように思うのは、資料として利用したいと思うような本ではないかという気もする。特に、図版が載っているようなやつを何冊も一度に使いたいという場合、本がそのあたりに転がっていないと、僕は考えがまとまらない気がする。もしかしたらそれは僕だけかもしれないけれども。
 電子書籍は、確実に便利だとは思うけれども、そこはやはり電子書籍ならではのイラッとする感じもあって、たとえば本のようにページをあちこちとペラペラめくれないというのは、もどかしく感じることがある。それができるというのが、本のいいところなのだ。小説のストーリーよりも文章の香気を味わいたいという場合にも、端末では味気ないと感じることがある。これは、活字や行間や紙の質や装丁なども含めて味わいたいものだからだ。そんな時には、やはり本というものは装丁から組版までも含めた総合芸術作品なのかもしれないなと思ったりする。いずれにせよ、電子書籍で十分な本とそうでない本があるのは確かなわけで、「本でなければならない」本を作るということがこれまで以上に大切になってゆくのだろうという、当然のような結論にしかならない。

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