漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

高野文子の描く 昭和のこども原画展

2017年11月26日 | 消え行くもの
 「昭和のくらし博物館」で開催中の、「高野文子の描く 昭和のこども原画展」を観にゆく。
 五反田から東急池上線に乗った。東急池上線に乗るのは、考えてみれば初めて。乗ってみて、驚いたのは、車内がレトロな感じになっていたこと。車内の壁が木目調。電灯も少し黄色くて、レトロな雰囲気をさらに盛り上げる。木目調の車内といえば、神戸に住んでいた頃によくお世話になった阪急電車がとっさに思い浮かぶが、まさか東京にも木目調の車内を持つ電車が走っているとは思わなかった。そういえば、東急と阪急、ちょっと名前が似ているんじゃないかと妻に言われ、そういえばそうだねと、スマホでちょっと検索。分かったことは、そのどこはかとなく漂うハイソな雰囲気から、昔から東の東急、西の阪急と言われているということ。初期の日本の民間鉄道事業が阪急を手本にして発展してきたという経歴があって、しかもその阪急の創始者である小林一三という人物は、渋沢栄一から依頼されて、現在の東急電鉄の始祖となった田園都市開発株式会社の経営を任され、無報酬かつ役員として実名を連ねないことを条件に、実質的に経営を主導したということ。また東急の実質上の創始者である五島慶太は、小林を師と仰いでいたという事実があったということ、など。なるほど。
 池上線を、久が原にて下車。そこからごく普通の住宅街を十分弱歩き、昭和のくらし博物館に到着。はっきり言って、結構わかりにくい場所にある上に、今では少なくなってきたタイプの建物とはいえ、特に珍しいという印象もない、ちょっと古めの、旗竿地に建つごく普通の民家である。
 門を入って、左手の離れのようなところで入場料を払い、引き戸の玄関から中へ。懐かしい感じは、すごくする。ぼくが子供の頃には、どこにでも普通にあったような家である。家の中は、昭和30年代くらいの、ごく普通の家庭の様子が再現されている。館長を務める生活史研究所代表の小泉和子さんの言葉によると、彼女の家族が実際にこの家で暮らした平成8年までの45年間に、様々なことがあって、最終的には空き家となってしまったこの家を、一度は壊してしまうことも考えたらしいが、「この時期に建てられた住宅が現在、ほとんど残っていないこと、一軒分の家財がそっくり残っていることから、決して立派な家でも家財でもありませんが、これはまるごとが戦後の庶民のくらしの資料ではないかと考えて、このまま残しておくことにきめました」ということ。確かに、生々しい生活の空気は感じる。ぼくが、特に珍しいという印象もないと感じた家だが、そうか、そう思っているうちにどんどんと失われていってしまうものなのか、とふと思う。
 今回この博物館を訪れた、肝心の目的の高野文子原画展は、二階の八畳ほどの小さな部屋の中で開催されていた。展示されていたのは、かつて綺譚社から箱入りのハードカバーで発行され、現在は筑摩書房からソフトカバーの新装版が出ている「おともだち」収録作「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の本文2ページ目から5ページ目までの多色刷りページを始め、「棒がいっぽん」収録の「美しき町」から数ページと「奥村さんのお茄子」から数ページ、「黄色い本」から表題作の「黄色い本」数ページ、他には「絶対安全剃刀」のカバー絵、「おともだち」のカバー絵、「青い鳥」のカバー絵、絵本「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」のカラー絵など。本音を言えば、もっとたくさん展示があると思っていたので、ちょっと少ないかなと思ったが、「おともだち」のカバー絵が思いの外小さい絵だったんだという発見があったり、「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の絵はやはり神がかっているなと思ったりできたのは良かった。でもやっぱり、もっと見たい絵は(特に初期の漫画の)、他にもたくさんあったんだけれども。「玄関」とか、「ふとん」とか、「田辺のつる」とか。。。
 帰りは下丸子駅から東急多摩川線で多摩川駅へ。そこで一時下車して、近くの多摩川台公園に立ち寄った。
 多摩川を挟んで、正面に、この十年ほどで急速に発展した、武蔵小杉のぴかぴかの高層マンション郡が見えた。

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