漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




トニ・モリスン『ビラヴド』(吉田迪子訳/ハヤカワepi文庫)読了。

 「124番地は悪意に満ちていた」という文から始まる、哀しみの過去と再生の物語。奴隷制度のもとで実際に起きた悲劇を下敷きにしつつも、決してそれだけではない、さまざまなものを読み取ることができる厚みを持った小説だった。

 以下、ネタバレ有りの簡単なあらすじ。
 124番地というのは、かつて奴隷であり、追い詰められた末に、心中を図って幼いわが娘を殺害したという悲劇の過去のあるセサが、残ったもうひとりの娘デンヴァーとともに住む家の住所。彼女たちの住む家には、セサが殺した名もない娘の霊が取り憑いていて、彼女たちを苦しめ、外からやってきた者たちを排斥しようともする。しかし彼女たちは決してその家を離れようとしない。あるとき、かつてセサがいたスウィートホーム農園の仲間であったポールDが、長い流浪の果てにやってくる。彼は自分を排斥しようとする霊を力でねじ伏せ、追い出してしまう。そして、幸せな日々がやってくるかと思ったのも束の間、ある日、ビラヴド(beloved)と名乗る、謎めいた少女が現れる。セサもデンヴァーも、抗いがたい衝動のもと、彼女の関心を買おうとするようになるが、ビラヴドがかつてセサが殺した自分の娘であり、デンヴァーにとっては姉でもある存在であって、それがふたたびこの世に戻ってきたのだという確信を得てからは、次第に最悪の形の共依存の様相を帯びるようになってゆく。さらには、セサの過去の隠されたエピソードを知らされたポールDは、自ら124番地を去ってしまう。そうした閉塞した関係の中からただひとり抜けだそうとしたデンヴァーは、近所に働き口を求めようとする。それを契機に、近所の人々が124番地を訪れるが、彼女たちがそこに見たのは、ビラウドではなく、自らの過去の幻であった。そうして訪れた人々に対して、セサは、アイスピックを持って襲いかかろうとする。
 セサの行動は、拍子抜けするほど、あっけなく未遂に終わる。しかしそれが、この物語のひとつのカタストロフである。ビラヴドは姿を消し、124番地には、セサと、デンヴァーだけが残される。そこに、一度は去ったポールDが帰ってくる。

 物語そのものは、そこで終わる。しかし、いちばん最後に、短いモノローグの章が挿入される。まるでこの物語が、単にセサとビラヴドの物語ではなく、もっと普遍的な、偏在する物語であるかのように、語り手が宙に浮いた章。そして、「人から人へ伝える物語ではなかった」という言葉が、何度か繰り返される。この長大な本を閉じるにあたっては、余りにも矛盾に満ちたこの短い文の中に、この物語が書かれた意味があり、物語として語る言葉さえ失った、あらゆる哀しみが内在されているかのように感じる。
 そもそもこの物語には、はっきりとした主人公がいない。一応はセサが中心となって物語は進んでゆくのだが、話者は場面によって度々変わり、読者は、さまざまな登場人物たちの視点に立って物語を読むことになる。奴隷としての悲惨と多くの黒人たちの言葉にならない思いについては、ベビー・サッグスとスタンプ・ベイドの口を借りて最も多く語られるが、登場人物たちは誰もが、白人たちでさえ、奴隷制度の下で、形は違えどそれぞれ何らかの歪みを内面に抱えることを強いられて生きており、その南部ゴシック的なグロテスクさが、物語を一面的なものになることを拒否する。最近話題になった作品では、同じくピューリッツァー賞を受賞しているコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』もやはりアメリカの奴隷制度を扱っているが、やや受ける印象が違うのは、『ビラヴド』は、奴隷制度を糾弾する物語であるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、決して完全に癒やされることのない、秘められた個人的な哀しみについての集合体的な物語であり、登場人物たちの口がことごとく重い、という点なのかもしれない。

 物語は、南部ゴシックの濃厚な香気を纏いつつ、どこかマルケスやイザベル・アジェンデらに代表されるデラテンアメリカ文学に顕著な、マジック・レアリスム的でもある。しかしもともとマルケスらマジック・レアリスムの作家は南部ゴシックの作家フォークナーに影響を受けており、同じくゴシックの末裔なのだから、どちらの印象もあるのはむしろ自然な流れではある。ぼくは時々思うのだが、ゴシックでしか語りえない領域というというものがあるのではないか。

 それにしても、『ビラヴド』とは結局何者だったのだろうか。セサが殺してしまった娘が実体化した超自然的な存在という風に読めば、すっきりと分り易いけれど、白人によって幼児の頃から幽閉されていた少女かもしれないという可能性がさらりと仄めかされていたりで、実際のところ、著者は明確にしていない。ビラヴドがまだ名前も与えられないうちに殺されてしまったセサの娘が投影された存在であるというのは確かだが、おそらくはそれだけではない。そうでなければ説明のつかない部分が多すぎる。間違いないのは、『ビラヴド』の存在は万華鏡的であるということだ。おそらくビラヴドを見るということは、自らの内面の、補いようもなく欠落した場所を見るということなのだろう。様々なものに変わりうる、のっぺらぼうのような存在、それがビラヴドなのかもしれない。



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