漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 7・月の雪原へ・6

2008年01月05日 | 月の雪原
 雪の中に顔を埋めて横たわっていたツァーヴェは、手と膝をついて起き上がった。そしてそのまま呆然と雪の上にぺたんと腰を降ろした。
 雪は冷たくなかった。全く冷たくなかった。ツァーヴェは手で雪を掬って、手の中で握り締めた。雪は小さな球になった。だが、自分の感覚が死んでしまったかのように、冷たさはまるで感じなかった。寧ろ、見詰めていると心地よい暖かささえ感じるほどだった。ツァーヴェは作った雪球を投げた。雪球はふわりと飛んで、音もなく深い雪床の中に消えた。
 ツァーヴェは首を巡らせた。見渡す限り、陰影に富んだ小さな起伏のある雪原が広がっていて、そのただ中に彼はたった一人だった。雪は月の光を仄かに反射して青白く輝いている。雪原の彼方には、空の隅を切り取る黒い森のギザギザの影が見えていた。天を見上げると、そこには巨大な月が煌々と輝いていたが、白金の輝きが余りにも強すぎるせいか、月の大きさが膨れたり萎んだりして見えた。ところがそれほどの月夜なのに、こうして見ていると群青の空には一面に、澄んだ色で輝く星が撒かれているのだった。
 心細さと畏怖する心が入り混じった気持ちで、ツァーヴェは長い時間呆然と空を見上げていた。やがて、不意に柔らかな風がすっと頬を撫でた。すると空にちらちらと輝きながら揺れるものが見えた。北極光だ、とツァーヴェは思った。その光を見ているうちにツァーヴェはようやく我に返り、立ち上がった。もはや見渡す限りの青い世界のどこにも妖精の姿は見えなかったが、雪の上には点々と小さな足跡が残されていた。足跡は、ずっと彼方の森を目指しているようだった。ツァーヴェは思った。あの妖精は確かにお父さんだ。僕には分かる。絶対に間違いない。なのにどうして逃げたりするのだろう。僕が分からないのだろうか。お父さんには僕が分からないのだろうか。そう思うと淋しくなったが、何か理由があるに違いないと思い直した。そうでなければ、あんなふうに僕の家にまでやって来たりしないだろう。そして眠っている僕を誘い出したりはしないだろう。それに、僕がこうしてここにやって来れたのも、きっとあの妖精……お父さんが何か魔法を懸けたからに違いない。そう思うと、ツァーヴェの体の中には気力が戻ってきた。この足跡を辿って行けばきっと妖精に、お父さんに出会うことが出来るだろう。きっとお父さんは、何か理由があって僕には話し掛けることは出来ないけれど、代わりにこうやって僕を誘っているんだ。だから僕は跡を追って行かなければならないんだ。
 ツァーヴェは確信を持ってそう思った。その確信があれば、もう迷うことなどなかった。ツァーヴェは一度だけ振り返り、彼方にぽつりと見える自分の家を見た。家には灯りはない。だが、どういうわけかそこだけ、ぼんやりと闇の中に浮かび上がって見えた。ツァーヴェは母のことを思った。あの家の中で、じっと眠っている母のことを。もしお母さんの目が醒めて、僕の姿が見えなくなっていたら、どれほど悲しむだろうとツァーヴェは思った。きっと、とても悲しむだろう。僕は何か書き置きでもしてくるべきだった。そうツァーヴェは思ったが、もちろんそんなことをしている余裕もなかったし、第一、彼にはまだ満足に文字が書けなかった。しょうがないんだ、とツァーヴェは思った。出来るだけ早くお父さんを捜してくるよ。そして、お父さんを連れて家に帰るから、お母さん、待ってて。ツァーヴェはそう思った。その思いが、母に伝わるように必死で祈った。ひとしきり祈りを終えると、彼はまた前を向き、そして妖精の小さな足跡を追って、雪の中にその素足を踏み出した。


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