漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・3

2008年07月03日 | 月の雪原
 「まだやっと起きたばかりなのに……」とオルガはうわ言のように言った。「ほんとうにごめんなさいね……」
 ツァーヴェは小さく喉を鳴らした。声が出なかったのだ。彼は母の次の言葉を待ったが、それきりだった。オルガは苦しそうな呼吸をしながら、じっと目を閉じている。随分長い間ツァーヴェは母の傍にいたが、一度も目を開かなかった。ただ、苦しそうな呼吸を繰り返すだけだった。やがてツァーヴェは立ち上がって、とりあえず何かを食べようと居間に戻った。そして昨夜母が作ったらしい煮込み料理を温めて食べた。食べ始めて、自分がいかに空腹だったのかを意識した。
 夢中で食事を終え、一息ついたツァーヴェは、居間に差し込む冬の鈍い朝の光を見詰めた。どこか白っぽくて、閉塞感のある光だった。しんと静かな部屋に、時々隣の部屋から、母の小さな溜息のような声が漏れてきた。ツァーヴェはじっと座ったまま、黙ってその声を聞いていたが、やがて思いついて、窓の方へ歩いた。そして窓から外を見た。
 窓の外の風景は、降り積もった雪に一面白く覆われていた。鈍い太陽に、見渡す限りの風景が、ぼんやりとした白さに浮き上がって見える。ツァーヴェはしばらくその風景を見詰めていたが、やがて窓から離れた。そして宝箱を取りに行き、テーブルに戻って、飽きることなくその中に入っている宝物を眺めていた。隣からは、ずっと母の苦しそうな声が聞こえていた。時々、ツァーヴェは母の傍らに行き、声をかけてみるのだが、母はどこか上の空のようだった。額に手をやると、酷く熱かった。ぞっとするような熱さだった。ツァーヴェは氷嚢に雪を詰めて、母の額に乗せた。だが、氷嚢の中の雪は、見る見るうちに溶けてしまう。ツァーヴェは、何度も何度も氷嚢の中の雪を取り替えるために外と中を往復した。そのこと自体は苦にはならなかったが、次第に力がなくなってゆくように思える母の姿には不安を感じずにはいられなかった。ツァーヴェはアトレウスのことを思った。彼が今ここに来てくれればいいのにと、心底思った。だがそれは望み薄だった。ツァーヴェは不安に、一人で耐えるしかなかった。
 冬の日は長くは持たない。午後も早い時間から、すぐに空は暗くなった。そして長い夜を迎える。ツァーヴェは薄暗い部屋の中に一人で座っていた。やがて日が完全に落ちて、夜の闇が辺りを覆っても、ツァーヴェは黙って一人で部屋の中にいた。ツァーヴェは耳を澄ましていたのだ。隣の部屋から聞こえてくる、母の小さな息遣いに。その音が聞こえている間は、まだ安心できた。母の氷嚢を取り替えること。じっと息を凝らして、神様にお祈りをすること。ツァーヴェに出来ることはその二つだけしかなかった。夜が深くなっていった。やがて、病み上がりということもあり、疲れ果てたツァーヴェはふらふらと自分のベッドに潜り込んだ。そしてそのまま意識が消え失せたかのような、長い眠りに落ちた。
 眩しい光に目を覚ましたのは、もう翌日の昼間近だった。ツァーヴェは最初呆けていたが、ふと気づいて母の声を探した。だが、母の息遣いは聞こえない。一瞬の後、ツァーヴェはベッドから起き上がって、母の傍らに向かった。母は、昨夜最期に見たままに、そこに横たわっていた。だが、奇妙な異臭がする。ツァーヴェは身体が震えた。母の顔を覗き込んだが、その表情は固まったように動かない。ツァーヴェは手を伸ばして、母の頬に触れたが、すぐに手を引っ込めた。母の頬は、あれほど柔らかかった頬は、まるで蝋のように硬かった。母は、既に生きてはいなかった。


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