漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 7・月の雪原へ・5

2007年12月26日 | 月の雪原
 途端に眩暈のようなものに襲われて、体中が痺れたような感じがしたが、それはほんの一瞬のことで、気がつくとツァーヴェは窓を超えていた。そして妖精を追って空を舞っていた。自分の意志で飛んでいるのか、それとも風に弄ばれて運ばれているのか、ツァーヴェにはどちらともわからなかった。だが確かなのは、彼方にゆっくりと離れて行く妖精の軌跡を辿るようにして自分が舞っているということだった。ツァーヴェは手を伸ばした。妖精の軌跡は微かに金色に輝いているように見えたから、その美しい色彩に触れたかったのだ。だがその金色の軌跡は彼の手の中で跳ねるようにして散ってしまった。そうこうしているうちにも、ツァーヴェの身体はどんどんと上昇していった。そして彼の家から随分と離れて、そして切り立った崖の向こうへ乗り出していった。遥か眼下に、雪を抱いた森が見えた。その雪が輝いている。彼は首を巡らした。森の向こうは、ざっと開けたアラースの平原だが、そこも一面に雪が柔らかそうに積もり、眩しいくらいの白金に輝いていた。
 空は一面に真っ青だった。見たこともないほどに深いコバルトブルーだった。見あげると中天に、正視できないほどに眩しく輝く月が、驚くほど巨大に見えた。月は白金の光を溢れさせていた。その光に、空はその深く透明な青さの中にきらきらとした輝きの粒子を練りこみながら、渦巻いているかのようでさえあった。
 その光景にツァーヴェは圧倒され、陶酔した。虚空に頼りなく浮かんでいるのに、恐怖は感じなかった。薄い寝間着だけしか身に着けてはいなかったのに、全く寒さも感じない。感じるのはただ心地よさ、月に照らされた雪原の上を渡って行く、夢のような悦楽だけだった。
 ツァーヴェは振り返った。かつて彼がいた家は、遥か後方に小さくなってしまっていた。これだけ離れて自分の家を見ると、その余りの小ささに寂しくなった。あの家の中に母は眠っているのだろう、とツァーヴェは思った。そしてさらに寂しくなった。だが、戻ろうとは思わなかった。ツァーヴェはまた前を見た。すると妖精はさらにずっと彼方へ離れてゆく。ツァーヴェは少し慌てた。なんとしてもあの妖精に追いつかなければならない、なぜならあの妖精はお父さんに違いないのだから、とツァーヴェは思った。追いついて、話をすればきっとお父さんは記憶を取り戻して、僕とママのいる家に戻ってきてくれるはずだ。そうすればまた、全ては上手くゆくに違いない。だから何としてでも。
 随分長い間、そうしてツァーヴェと妖精は眩しいほどに白い平原を眼下に見ながら、飛び続けた。彼方では巨大な月が廻り、空が様々な青さに揺れていた。やがて少しづつ妖精が高度を落とし始めた。それにつれて、ツァーヴェの身体も次第に高度を落としていった。そして妖精はふわりと白い雪の上に降り立ち、小さな足跡をぽつぽつと残しながら走り始めた。それに随分と遅れて、ツァーヴェも光り輝く雪原に倒れこむようにして降り立った。


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