つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

総じて

2017-11-19 | Weblog
奇奇怪怪、殺伐である。
人間関係の劣悪は愛情の欠如。
地球を救えるのは愛情のみ。
愛を深く考える。
・・・あまりに深遠ながら、そのままである。
単純に思え!と思う。
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思いの外・・・

2017-11-18 | Weblog
いよいよ薬にまでチップが埋め込まれて、
動態監視が始まった。情報は操作されて一律に統治される。
従順なる血統を育み、そうでないものは排除される。
正義と悪魔の戦いが始まる。
対等な力は、互いを認め合って終止する。
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過つ者

2017-11-17 | Weblog
過ぎるという字は過つとも読まれる。
この世界は、相対するものの存在である。
どちらか一方だけということはない。
「持ちつ持たれつ」として互いが認められる。

「精げる」という言葉がある。辞書には、「玄米をついて白くする」とある。
精白された米は、白米といい精米となる。
精米されると玄米より美味しくなるが、栄養面では玄米に劣る。
味を追求した分、健康面では貢献が少なくなってしまう。
精げ過ぎてしまうものが多くなって、自然界にはない不自然なものが
平然と流通している。食感もさることながら、見た目、つまり、色合いと形に
意が注がれている。
人間の食の世界は、健康より美味しさが重視されて、美味しければ
何でもあり?状態となって、様々な添加物が混入されて、
口当たりの良い物、見た目が好いものが作られている。それが、
健康は二の次としか思えない害のある添加物となっている。
食べるとは、人を良くすると書かれている文字であるのに、
その意味どうりとなっていない。
商売が金儲けであるために、売れなければ意味がないとなって、
人の為にという根本がなくなっている。金がすべてである、と。
その果は、不健全となって病に侵された社会となっている。
肉体から精神面まで病んでいる世界が作られている。
あらゆる面で、金に支配された世界が作られているのである。
少数たる
欲のいき過ぎた者に操られているのである。
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厭世観頻り

2017-11-17 | Weblog
食は健康に繋がり、仕事は人間関係のストレスに繋がり、癒しは薬に頼る。
この生活のすべてが金に繋がっていて、否応なく病に蝕まれていく。
金を稼ぐために生きる。生きるためには金が必要となっているために、
金が命となって、金の亡者になり、金に使われていく金の奴隷が
人の心を失わせている。
金のない奴は、
人間の尊厳もなく、かぼそくて生きていく資格もないと見下されて、ゴミのように扱われて、社会の勝手に死に追いやられていく。
金に心を奪われて奴隷となった従順たる者こそ生きながらえていく世界。
彼等はみな鬼の形相で暮らしている。が、
鬼と化した者は、互いを鬼とは思わないしそう見えない。
自分の事しか思わないために、人としての心を捨てたことすら思えない。
いつ捨て去ったのかもわからない。それは、生まれた時から、
金がすべての世界であったから。
愛のない社会となっている。
そして、
厭世観しきりに強まり、自死に至るもの数十万とも言われる。
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自ら然りの法則

2017-11-16 | Weblog
この民主主義社会は、自由にして不自由にある。
大衆の力は恐るべしであるが、優秀にある者は少なく、よく騙される。

民主として自由をコントロールすれば、個性は潰されてしまい、異端として疎まれはじかれいく。
今や民主主義は間違った方向性にあり、独裁的社会に等しい。
民衆に「持ち主」という優越感を与えることによって、いとも簡単に傀儡することができる。
これは、煩悩を滅することのできない、弱い心の脆弱性を突いているのである。
悪知恵の働きが活発な者の策略に、大衆はまんまとはめられていくのである。
指導者は嘘をついていると知りつつも、何度も選挙に騙され続けてしまう。
先進国、経済大国としてある日本は、民衆の生活苦を一層促進させ、
一握りの裕福なる浅ましき者達のための政治となって、大衆をじりじりと死に追いやっている。
あと半世紀の間、日本の人口は減り続け、国勢は衰える。
優秀にある人種にして、反発する優秀なる者は悉く弾かれて、
ただ従順である者を育む。従順である大衆迎合社会とするのである。
これはよく統制が効いていくのである。
そうして優秀なる人種の日本は、背の高い白い肌の種にコントロールされて、
反発できない社会にされている。実に、侍精神を忌み嫌った悪代官に操作されているのである。
日本は、日出国、初めて神が降り立った土地である。
その神は、善悪具足にして地上を支配していった。そのための日出国なのである。
先ず降り立ったところからとして地上を回ったので、試みは日出処から顕わされる。
ただ善悪具足にしての神は、紆余曲折にして誤る。
武士道にある精神を理解し難い。独特の倫理意識、武士の情けを軽んじたのである。

神々は、人類の科学をはるかにしのいでいるために、物理に於いて太刀打ちは出来ない。
しかしながら、神々とて進化の中にあり、唯心と唯物を超えてはいない。
ここ半世紀は、地上は混沌として、神々の試みに右往左往されるが、それは、
不自由から自由への転換の顕れである。
何しろ、自由は神とて弄ることはできないのであるから。
だから、束縛する者は、やがて法によって裁かれる。それが自然である。
なぜなら、すべてがエネルギーの法則の下の存在となっているからである。
全てとは、宇宙である。自ら然りの法則である。




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道(物)の理

2017-11-15 | Weblog
地上の世界は、人類の知能では太刀打ちできないほど、
知的に優れている生命体によって支配されている。
それを人は神と呼ぶが、抽象的で漠然としてしかとらえられていない。
日常的な事柄を常識として生きているために、常識を超えたことに対しては、
正しい応対がなされない。ただ驚きと同時に恐怖心が募り、思考が停止してしまう。
不可思議なことには、即対応できないのである。

経験がものをいうというのは、経験から学ぶその道(物)の理を知り、
その道(物)の理のコツを得られたためである。その知の識が知恵である。
知恵は、道理から学んだ経験の識であるために、
一度覚えれば忘れることがなく、即判断できるものとなる。つまり、
あれこれ思い煩うこと(時間)が不要なために、(思議する必要が無くなるために)不思議なことと言うのである。
道理を覚れば不思議となり、即断できていくために、
災いからも瞬時に避けることができていく。危機一髪、間一髪逃れられていくのである。
大事に至らないで済むのである。まさにまさに不思議となるのである。

経験の知恵こそ、一事にして万事に繋がり、達人となっていくのである。
一を知れば十を知れていく不思議が起こるのである。
それが心の経験による力である。心念、信念の力である。
その心の力でもって神を見るなら、見たもの聞いたものすべてを信じてはならない。
示す申す者は、善悪具足にしてあり、それが自然である。
宇宙の道理である。対立にあって共有し、分・別がある。
だから、知恵をもって、善いものに交われ。
人の常識を打ち破り、前に進め。惑わされるな、心を摩け!
精神を糺せ、質せ、正せ。
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自由を..・

2017-11-14 | Weblog
権力者の悪事を、権力でもって隠しねじ伏せたにしても、一時的に過ぎないものであることを、
智者は知っている。
企てに、一時的に顔がほころんでも、安堵となることは無い。俗世、人の
企みというのは、利にして少数なる者にあり、大衆には悪なることとして据えられるものである。
世俗にある企業というのは、隷属にあるもので欲の固まり。
人が人を奴隷として扱う制度化された組織である。そこに平等などあるはずがない。
ただ道具とされて使い捨てられる運命である。
階級というのは、ただ闘争を招くものである。
それは、洗脳という誤った知識を埋め込むものであるために、
終にはうまくいかなくなり、必然崩壊する運命を持つ。
自由であるエネルギーの法則は、その自由に由ってなんでもあるという可を持ち、
故に、不可能にもなる。「自」らのエネルギー、つまり、心の判断に由る。

私達は、「受」の世界で生きている。エネルギーの円運動による終わりの無い世界となっている。
始まりは「受」の起源である。その自由に由って円運動の性質となり、その変化が無常として常住となっているものである。
変化の刺激を受けて、反応の有無に分かれた対応と応対である。
それぞれの刺激を受けて、それぞれに対応、それぞれに応対して容姿となっている。
その原姿は、円である。しかし、よくよく観ると環状体状となっていての動きとなっている。
それは、互いの対立面において特異点をもち、限りない広がりと、限りない縮みとなって打ち消しあっている。
打ち消しあう特異点の中心はゼロであり、動きのない動き?である。
台風の目のようなと表現すれば、わかりやすいのではないかと思うのだが・・.
この円運動が特異点に返る環状体状態であるために、一旦ゼロとなり終わりと始まりとなっている。
浄化である。そのようにすべてが繋がっていくものとなっている道理である。
特異点の中心であるゼロは真円であるために、動きは感じられない。
全くの静止にある。これを言葉で表せば、安穏であり安楽浄土の場と言い当てる。
動きがないために、永遠にそこにとどまる。
それは、転生輪廻が無いという世界になる。

エネルギーの動きは、ただ回るというだけのものである。
だから、人の思うような善悪などない。善悪がないための動きがどのような
性質を持っているかということを単純にして考えてみるとよい。
すると、このエネルギーの動きが、善運動の動きとなっていることに気が付くはずである。
これを自由をもって受けることである。つまり、対応であり応対である。
此の応対が正しくあれば、正しい知恵となって、正しく性格が作られていく。
ここに自由をもって、前に進んで行く動きとして進化となり、向上となっていく。
心、いわゆる魂、いわゆる生命の次元上昇となっていくのである。
見た目は変わらないが、昨日の私と今日の私、また、明日の私は全く違う私となっているのである。
人格に格段の差が現れてくるのである。

エネルギーの法則を覚れば、一事にして万事につながり、
知の恵によって、一を知れば十が知れてくるのである。案に違わずとなってくるものである。
即断が適うのである。・・・。









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隷属の誤り

2017-11-12 | Weblog
正義=道理に適って正しいこと。と辞書にある。

繰り返すことが正義となる。

それが良いか悪いかということではない。

繰り返しが道の理であるために、
善も悪も正義となる。

だから、悪を常識としてはならない。
悪が常識となる世界が地獄といい、
地獄を作りたくなければ、悪事は慎まなければならない。

善悪のどちらが正義となるか否かは、
人の自由にある。

数の統制には少数ほど容易くなるが、万人の頂点に立ち威力を保つには、
才力がずば抜けてなければならない。まして知能の集まりのある所では、
数が多くなればなるほど難しくなる。
まだ、野望のあるうちは自由が利くことは無く、ただ数の制限にあう。
地上の神々は、この制限下にあり不自由を超えられてはいない。
人の自由は悪に導かれてあり、その偏りは顕著になりつつある。
人の選択は誤りにあって、その進化は、崩壊へとまっしぐらである。
ただ自由にして不自由を選択しているのである。
神々とてこの自由を侵すことはできない。
どれほどの人達が、恐怖を思わずに死するものであろうか?

知恵をつけて心を摩け!是を覚れ。くれぐれも早く。
善は急げというではないか!




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傀儡の政権下

2017-11-11 | Weblog
我が国日本は、傀儡の社会である。
日本が戦争に敗れて以来、つまり、東条英機がA級戦犯として処刑されて以来、
日本は米英の傀儡にあり、主たる権力を持たない。
そのための政治経済社会であるために、
すべてを「否めない」といっていいほど隷属社会にある。
特に経済においては、勤労たる奴隷、金融制度化された窮屈極まりない社会に支配されている。
一部の「ずる賢い奴ら」という企みにある奴隷社会なのである。
ただ従順であること。そこに喜びを見出されるよう飼いならされる犬の様なのである。
鎖につながれた犬が、鎖につながれているのを自由として、喜んでいるようなものである。
自由なんてないものを、
その器(あなたの)にあてはめられて、自由を満喫させられる。
井の中の蛙のように、不自由を知らない。

先ずは、我が国からほころびはじめ、急速に崩壊へと傾く。
日出国であるために、先んじて神々がいなくなるのである。
老人というのは、ただ死に近いものである。
老人大国であり、ボケも日本がダントツ多い。
何を意味するのか?プロビデンスの目は告げる。曇る。


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心念

2017-11-10 | Weblog
筋骨隆々なる犬がいる。
人間でいえば、肉体鍛錬に明け暮れるボディービルダーの肉体なのである。
しかしながら、犬は人間のように、特に筋肉トレーニングはしないのだが、
筋骨隆々たる肉体を持つ犬がいるのである。
遺伝的に繋がっていくが、さしてトレーニングはしなくても、
そういう体つきを持つのである。


人間は、健康のために、或いは、スタイルの美しさ、逞しさにほれ込んで、
懸命に努力して肉体改造に励む、精神も鍛えられて、
涙ぐましい努力の甲斐あって、羨まれる肉体を手に入れる。
食っちゃ寝、運動することなく、極力動かない生活をしていると、
脂肪太りの体となり、見た目もまた、気力も失せていき、美しく快活快適な生活とはなっていかない。
往々にして皆そうなるようだ。犬猫にしても同じようである。また、どんなに鍛えていた人でも
衰退は否めない。
が、
特に、運動努力(トレーニング)しなくても、ボディービルダーのような肉体を持つものがいるのである。
まして知的にある人間にしては、肉体は心に付き従うと言われる。
ただ、偏に
思いをめぐらしても簡単にはいかないのであるが、
想いの方便を「知恵をもって思う」にある。ちょっとしたこと
がカギを握っている。このカギを知れば、肉体は変化するようである。
想いのトレーニングが要である。
おもい続けるがヒント😊となる。


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