つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自由を..・

2017-11-14 | Weblog
権力者の悪事を、権力でもって隠しねじ伏せたにしても、一時的に過ぎないものであることを、
智者は知っている。
企てに、一時的に顔がほころんでも、安堵となることは無い。俗世、人の
企みというのは、利にして少数なる者にあり、大衆には悪なることとして据えられるものである。
世俗にある企業というのは、隷属にあるもので欲の固まり。
人が人を奴隷として扱う制度化された組織である。そこに平等などあるはずがない。
ただ道具とされて使い捨てられる運命である。
階級というのは、ただ闘争を招くものである。
それは、洗脳という誤った知識を埋め込むものであるために、
終にはうまくいかなくなり、必然崩壊する運命を持つ。
自由であるエネルギーの法則は、その自由に由ってなんでもあるという可を持ち、
故に、不可能にもなる。「自」らのエネルギー、つまり、心の判断に由る。

私達は、「受」の世界で生きている。エネルギーの円運動による終わりの無い世界となっている。
始まりは「受」の起源である。その自由に由って円運動の性質となり、その変化が無常として常住となっているものである。
変化の刺激を受けて、反応の有無に分かれた対応と応対である。
それぞれの刺激を受けて、それぞれに対応、それぞれに応対して容姿となっている。
その原姿は、円である。しかし、よくよく観ると環状体状となっていての動きとなっている。
それは、互いの対立面において特異点をもち、限りない広がりと、限りない縮みとなって打ち消しあっている。
打ち消しあう特異点の中心はゼロであり、動きのない動き?である。
台風の目のようなと表現すれば、わかりやすいのではないかと思うのだが・・.
この円運動が特異点に返る環状体状態であるために、一旦ゼロとなり終わりと始まりとなっている。
浄化である。そのようにすべてが繋がっていくものとなっている道理である。
特異点の中心であるゼロは真円であるために、動きは感じられない。
全くの静止にある。これを言葉で表せば、安穏であり安楽浄土の場と言い当てる。
動きがないために、永遠にそこにとどまる。
それは、転生輪廻が無いという世界になる。

エネルギーの動きは、ただ回るというだけのものである。
だから、人の思うような善悪などない。善悪がないための動きがどのような
性質を持っているかということを単純にして考えてみるとよい。
すると、このエネルギーの動きが、善運動の動きとなっていることに気が付くはずである。
これを自由をもって受けることである。つまり、対応であり応対である。
此の応対が正しくあれば、正しい知恵となって、正しく性格が作られていく。
ここに自由をもって、前に進んで行く動きとして進化となり、向上となっていく。
心、いわゆる魂、いわゆる生命の次元上昇となっていくのである。
見た目は変わらないが、昨日の私と今日の私、また、明日の私は全く違う私となっているのである。
人格に格段の差が現れてくるのである。

エネルギーの法則を覚れば、一事にして万事につながり、
知の恵によって、一を知れば十が知れてくるのである。案に違わずとなってくるものである。
即断が適うのである。・・・。









コメント
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