「あの世は在りますか?」と聞かれて、
「あります」と、はっきりと答える。
「どうしてそんなことがわかるのですか?」と問われて、
こう答えた。
「日々の仕種を見ていれば知れてくるものです。
日々の仕種というのは、日の回りの事です。」
「日の回りは、終わることが無く続いているという事です。
繰り返し繰り返し続いているという事です。
昨日と今日が同じ様に、そして、明日も同じように繰り返しています。
それを絶対といいます。
でも、昨日は昨日、今日ではありません。
今日もまた明日ではありません。そう、一旦区切られて新たな一日があるのです。
それは同じでありまた、違うという様です。
すべてがその様にあるとして、日々暮していれば見て取れます。
だから、それと同じように、命もあるのです。
一旦として区切られて続いているのです。
無くなってしまったという事ではありません。
この世からあの世へという行き来にすぎません。
前は前として一旦区切られ、次としての新たとなっているのです。
昨日が今日と同じように少しも変わってはいません。明日もです。
それと同じように、
あの世はこの世と少しも変わることのない世界なのです。
なぜなら、
この世の記憶があの世の現象となっているからです。
つまり、心の現象の世界なのです。
心は日と同じように、無くなるという事が無いのです。
永遠に続いていくという事なのです。
一旦として一日が終わり、亦として新たな一日が始まるように。
だから、
あの世は、この世の映し画で、
この世を苦しくて過ごせば、あの世もそのまま苦しくてという世界となっているのです。
そしてまた、その縁によって、この世となるのです。
あの世はこの世の映し画であって、映し画の肉体である為に、
業によって変えることはできません。
この世に生まれてきた時が、新たな肉体を持つことになるために、
業によって変えることができるのです。
良くも悪くも、この世の心次第なのです。
運命も宿命も縁により与えられ、その縁を変えられるのは心次第なのです。
新たな肉体をもってこの世に生じた時だけなのです。
それ故、生きているという事はとても価値が高いことなのです。
無駄にしてはなりません。
一日が終わり、新たな一日が始まるように、しかし、昨日を引き継いでいるように、
心(命)もまた、過去を引き継いでいながら、無垢にして無知となっている様に見えるのです。
自分の心の写し画が、宿命であり運命となっているのです。
心次第、如何様にもなるのですが、その心はよく惑わされて、騙されやすく、して、
思うようにはいかないのです。それが人生、経験を豊かにして悟ること、
つまり、智恵を身に付けて覚ることなのです。
そうすれば、過去(過去世)が思い出され、何を為すべきか人生が見えてくるのです。
つまり、心がどうあるべきか知れてくるのです。そうすれば、
心の進化(悟り)はずば抜けて早くなるのです。
誰からも教わることなくして、‘道’というものを覚れるのです。
この世という肉体の死を生命(心)の死と思い、死んだらどうなってしまうのかと、
無という暗黒を思い描き、恐怖となっているために、死が生命の無くなることであり、
すべての恐怖の基となっている。
死は生命(心)の無くなることでもなく、だから、恐怖となることでもない。
それは、日の回りという法則が無くなることのない仕種となっているためであり、
恐怖というのも無いためである。
人の心が勝手に間違った判断をするためである。
惑わされて、迷い、騙されて、誤って思い違いをするのである。
日々のありのままを見て、ありのままに見ていないためである。」
「あります」と、はっきりと答える。
「どうしてそんなことがわかるのですか?」と問われて、
こう答えた。
「日々の仕種を見ていれば知れてくるものです。
日々の仕種というのは、日の回りの事です。」
「日の回りは、終わることが無く続いているという事です。
繰り返し繰り返し続いているという事です。
昨日と今日が同じ様に、そして、明日も同じように繰り返しています。
それを絶対といいます。
でも、昨日は昨日、今日ではありません。
今日もまた明日ではありません。そう、一旦区切られて新たな一日があるのです。
それは同じでありまた、違うという様です。
すべてがその様にあるとして、日々暮していれば見て取れます。
だから、それと同じように、命もあるのです。
一旦として区切られて続いているのです。
無くなってしまったという事ではありません。
この世からあの世へという行き来にすぎません。
前は前として一旦区切られ、次としての新たとなっているのです。
昨日が今日と同じように少しも変わってはいません。明日もです。
それと同じように、
あの世はこの世と少しも変わることのない世界なのです。
なぜなら、
この世の記憶があの世の現象となっているからです。
つまり、心の現象の世界なのです。
心は日と同じように、無くなるという事が無いのです。
永遠に続いていくという事なのです。
一旦として一日が終わり、亦として新たな一日が始まるように。
だから、
あの世は、この世の映し画で、
この世を苦しくて過ごせば、あの世もそのまま苦しくてという世界となっているのです。
そしてまた、その縁によって、この世となるのです。
あの世はこの世の映し画であって、映し画の肉体である為に、
業によって変えることはできません。
この世に生まれてきた時が、新たな肉体を持つことになるために、
業によって変えることができるのです。
良くも悪くも、この世の心次第なのです。
運命も宿命も縁により与えられ、その縁を変えられるのは心次第なのです。
新たな肉体をもってこの世に生じた時だけなのです。
それ故、生きているという事はとても価値が高いことなのです。
無駄にしてはなりません。
一日が終わり、新たな一日が始まるように、しかし、昨日を引き継いでいるように、
心(命)もまた、過去を引き継いでいながら、無垢にして無知となっている様に見えるのです。
自分の心の写し画が、宿命であり運命となっているのです。
心次第、如何様にもなるのですが、その心はよく惑わされて、騙されやすく、して、
思うようにはいかないのです。それが人生、経験を豊かにして悟ること、
つまり、智恵を身に付けて覚ることなのです。
そうすれば、過去(過去世)が思い出され、何を為すべきか人生が見えてくるのです。
つまり、心がどうあるべきか知れてくるのです。そうすれば、
心の進化(悟り)はずば抜けて早くなるのです。
誰からも教わることなくして、‘道’というものを覚れるのです。
この世という肉体の死を生命(心)の死と思い、死んだらどうなってしまうのかと、
無という暗黒を思い描き、恐怖となっているために、死が生命の無くなることであり、
すべての恐怖の基となっている。
死は生命(心)の無くなることでもなく、だから、恐怖となることでもない。
それは、日の回りという法則が無くなることのない仕種となっているためであり、
恐怖というのも無いためである。
人の心が勝手に間違った判断をするためである。
惑わされて、迷い、騙されて、誤って思い違いをするのである。
日々のありのままを見て、ありのままに見ていないためである。」