つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

八正道

2014-07-20 | Weblog
経験にして智慧を得、
その知恵によって道理を知る。
そして、智恵巡らせて虚空を見る。
すると、
あらゆる仕種が見て取れて、
これはこう、あれはあーしてと知れてくる。
その心、六感にして受け取り、
まだ来ぬことを予められる。
経験にして経験によらずに読み取れるのである。
その心、不思議と言い、
誰でも清浄にして得られるものである。
だから、よく心をみがくことである。

常に先生と呼ばれるもの、
法に依り自己に依るものである。
八つの正しい道を歩んでいれば、考えるに及ばないものである。
それ以外は、
勘に頼り、当たるも当たらぬも八卦となる。




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仁愛

2014-07-20 | Weblog
私の人生も半分以上は過ぎ去った。
しかし、いまだ働けど働けどの暮らしである。

それを、プラスと捉えるもマイナスと捉えるも、決めるのは
有難くもあれば有難くも無しという心次第。

右も左もわからない若かりし頃から見れば、
お陰様で仏心を僅かでも宿すことができ、
路傍の石にも心惹かれして、つまらない命ながら、
情けをもって生きている。
生きとし生けるものに我と同じ心があり、
驕りも嫉妬も憐れみも
そして、愛しみもいり交えること人として、ながら、
仏心に目覚め、省みることひたすらにして、
ただただ我が身に置き換えて憐れみ、憂えること
有難くして慎ましく倹しくを覚え暮らす。

人の身、すべて各々の様にあり、各々の報いにて各々の償いにてまかなうものである。
他がどうのこうのという関わりは無く、
各々にての始末である。
その意味で、御節介という情けがあり、
有難くとするも心次第である。
真実、自分の心は‘有難くも’にあるか?
察する心は持ち合わせたかと、年を重ねた心に思う。
格という人の順位を上に持てたか?

仁愛にして格の違いがうかがい知れる。

君よ、あなたよ、
自分はただ年を食ってきただけかと
改めて思えば・・
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浄化の仕種

2014-07-19 | Weblog
世の中がどのようになろうと明日は必ずやってくる。
絶対という時の流れである。

世界的に見て、人の世は相も変わらず荒れ狂っていて、
命というものを蔑ろにしている。
時代が進み、いがみ合い傷つけあうことはいけないことと認めながら、
未だに民族の争いが絶えずに、互いに傷つけあっている。
また、それをすぐに止めること、止めさせることもできずに、
ただあれこれと論ずるばかりである。
人というのは、
霊長類の中で最高頭脳とされながらも、実に愚かな低能なことをしでかしているもので、
悪意がある。
同じ人でありながら意に善悪を持つ。
これが、地球という生命体に反応し、様々な防御という変化が現れる。
地球は地球人だけというわけではなく、
頭脳明晰なる生命体も暮らしている。
もし地球が外生命体に侵略されそうになれば、
地球駐留生命体によって守られる。
なぜなら、彼らも地球で暮らしているからで、
地球と共にあるからである。
また、悪意があるものによって地球が脅かされるなら、
地球自体天変地異をもたらし、排除がなされる。
その様にして地上の変化は在れど、地球に
明日はこないということはない。
絶対という流れの中にあるからである。

悪意はその業によって報い償わされるのである。
プラスとマイナスは相殺されてゼロになり、
新たにという無垢なものから始まるのである。
そこに浄化という清浄があるだけである。
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自分の為に生きている

2014-07-16 | Weblog
今生、あなたが人としての情けも無く、
人生好き勝手に生きていたとしたら、
この人生の終る頃に
必ず苦しむことになる。
利己的に動き、嘘偽りによって生きていれば、
その身
必ず災いに遭う。
事故、或は病に倒れて、
金はあっても金では解決できない事になる。
思いに反して他界してしまうのである。
はたまた、
来世には、劣悪な環境に生まれることになる。
そのように、世の中は
必ず辻褄が合うようになっている。
辻褄が合って+-ゼロとなっているのである。
不増不減であるという。
相対するものが釣り合って成り立っているために、
苦があれば楽があり、楽あれば苦があるのである。
何やら想定して、楽ばかりを企て
仕向けても、
何れはその分の苦を負うのである。
企みが上手くいったとしてもその時だけで、
釣り合いを欠いて存在が長く続くことは無いのである。
今という時は良くても、
我儘にして利己的にのみ生きた人生はその果、絶対辻褄は合わされるのである。
だから、
世の中、改め生きよ!と言われるのである。
今生に於いても或は、来世に於いても、
必ず報うのであるから。
自分の人生その生き方は、
誰彼に影響されることなく、自業自得にてあるのである。

正しく生きよ!辻褄は絶対合うものとなっているのだから。
誰彼の為ではなく、全てに自分の為に発せられている言葉である。
でも、知る人はあまりに少ない。
最後に、あるいは、来世に悔やみがでても、
自分がしでかした始末なのである。
報いてチャラ、何もなかったことになるのである。
そうしてまた、一から始まるのである。
つまらぬ罪を作らぬように生きることである。
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回るという自由の運動性

2014-07-14 | Weblog
遅かれ早かれ人は死ぬ。
何れ以て死ぬのである。
それは必ずという約束でもある。
誰といつ約束したのかという事は知らず、また、
約束したことも無いのだが、しかし、それは
絶対という約束でもって生まれてくるのである。
衆縁和合といういわゆる繋がり、絆であろう。
それは、本能という質、性から来る欲という条件。
その条件をもって生を受ける。
だから、性から来る欲を無くせば、生を受ける条件は無くなる。
本能という性質でもって生を受け、して、
本質的に性を克服する。それが、真実の快楽である。
苦を滅した楽である。心で生まれてくる、心が生きる。そう書いて性である。
だから、その心を改め正して生きて、永遠の安住に生きるものである。
エネルギーその性質、廻るという性(さが)の為の永遠である。
それこそ、自由というものであるために。
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賢い人

2014-07-13 | Weblog
人はせいぜい生きて一世紀。
そのうちほとんどの人は七、八十年といった寿命である。
事故やら病などでなくとも、五十半ばも過ぎて、
そろそろお出迎えという人もいるもので、
それこそ自分の意志ではどうすることもできないのが寿命である。
人知遙かに超えた大いなる力によるものとしか思えない、いわゆる神というものの裁量であろうか
というものである。
もし、自分の意志によって、その寿命が知ることができるなら、
恐ろしいことに戦いて、とても生きていけないものであろう。

知らぬが仏というのは、一抹救われているという事でもあろうか。

自分が生きた様々な証をもって、
神という見知らぬ偉大なる力は、与えた寿命の長短をまた、
調整するのだろう。
宿命も運命も決まっているかのように思われるも、
その意味で不定であって、やはり、とにもかくにも自分の心、
それにもとずく行為によって定められる、定まるのだろう。

私の心と同じように、神もまた意思の塊、同じエネルギーからなるものである。
そのエネルギーにして、疎通を図り、
寿命というものが知らずして感じてくるものであろう。
虫の知らせなどと第六感を仮令て、見えてくるものでもある。
して、
もういくばくも無いと知れてくる自分の寿命に、
すれば何ができるのかと焦るもので、戦きに非ず、
偏に日の回りに速さを感じるものである。
その速さに目が回され、ポーンと投げ出されて赴くこれからの世界を
思い描くに思い描けず、ただ、その身、裸の心で旅立っていく。
いや、何とか寿命前にして、
智慧を持って旅立てることだけが唯一の救いである。

南無妙法蓮華経と題目を唱え、南無阿弥陀仏と名号を唱え、開経偈にして、
心経を唱えて、これほどまでに無敵はない。

人生、夜に譬えて、三つのうちの一つでもつつしんで目覚めてあれ。
智慧を持って生きよう。
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まさか

2014-07-11 | Weblog
「まさか」という‘さか’がある。
真坂とも書くのだが真逆とも書かれる。
その聞こえがどのような文字であるか知らないが、
まさかと平仮名で聞こえて、真に坂である。
上り坂か下り坂。

天に生まれた天女が、
人の十倍もの寿命を持ち、楽を享受してあり、しかし、
未だ六道の中にあるために、その寿命終に尽きる時は、
この世の比ではない苦に苛まれるという。

同じ様に、

あなたが現世で、今の身に何のお陰も無いにして
よい地位にあり、よい思いの立場にある人であったとするも、
その立場をいいことに、ただ身の利にのみ振る舞い終えた時、
その暮らしぶりと反して、過酷な立場に変換される。
まさか私が、と努々思わぬために、真逆にまさしく坂を転がる。

六道は糾える縄の様を呈して、あなたは、その時々を味わい、
‘それでも’という正義の仕方を見られる。
‘それでも’という正義の仕方をしていて、
糾える縄の様は、その斯く斯くしかじかをことごとく事無きに済ませるが、
斯く斯くしかじかをただ味わえば、ただそれまでであるために、ことごとく苦を味わうだけである。


さて、楽あれば苦ありであり、
苦あれば楽ありを道理は示すが、
嫌だ嫌だと嫌がる事を、嫌がりながら嫌がりもせず、
こなして苦が苦とならずに苦として消されて楽を迎える。

幾多の人生乗り越えて、老いて今、
ただ単に老いただけであるなら、六道輪廻の中にしても天に生まれることも無く、
餓鬼畜生を彷徨いて、戦きの中に人の心すら非ず、鬼畜にして明け暮れるのみ。

現世その身、華々しくも
献身にして真坂は上り坂、転げ落ちる真逆はない。

あなたに、「まさか」はどっちの「さか」?
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幻滅すること

2014-07-10 | Weblog
できない奴ほど
あれこれ権利を主張する。
昼は昼休みとしてきっちりとる。
それが後々支障が出ると知ることなく、
前後を見れないのである。
こういうやつが堅物で融通の利かないというもので、
何でもぎくしゃくとなっていく。
そして、確かにすべてにだらしなく、抜きんでて優れるところが無い。
自分自身を痛く傷つけることに疎く、目前の快楽の権利を取るのである。
楽すれば楽が邪魔して楽ならず、を深く考察しない浅はかさ。

臨機応変というのは、
時と場をうまくこなせる気配りである。
年老いて、今更ながらの人ほど幻滅の悲哀。
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残された日々の中に知るもの

2014-07-09 | Weblog
毎日は、
毎日の事だからやるせなく、
だから、大変だ。
大変だから辛くても、頑張って生きていかなければならない。
そうして日々は意味を持つ。
みんな自分の為の意味である。
ただ終わりの無い日々の、終わりのない自分のための日々である。
死というものは、そういう風にして、曖昧というものを定かにする為に、
突然という風に訪れる。
それが、どんなに心配りされたものであるのか知らずして、
怖いとか思うが、ただ身勝手が生んだふしだらである。
ふしだらにして毎日をただ生きて、
意味も無く嘆くも自由である。
何度その曖昧を定かにされて来たのだろう?
終わりの無い日々を、終わりの無い命として知り得た時、
死というものが無くなった。定かに曖昧がなくなった。
生にして、絶対という条件にあるものに、
恐れは無いと知れる。
曖昧という心の無知にして作られるものであるを、
智慧をもって知る。

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悪心蔓延が報う

2014-07-08 | Weblog
年々、自然が猛威を振るう。
異常事態、
日本ではあまりなかったことだ。

日本では人口減少が続いているが、
世界人口は増え続け、もうじき80億に迫ろうとしている。
その影響は、食糧難やら環境汚染等々、地球にしては深刻な状態。
それは、
癌細胞のように蔓延る悪性なものである。

地球をまるで我が物顔で、勝手気ままに扱う。
地上で一番偉いものと勘違いして、
自分たちを基準に、
必要不必要を選り分け、
共存共栄という絆があることに気が付かない。
身勝手は周りを見ることが無く、とにもかくにも
我儘で、だから、どんどん追い込まれていく。
住み難いという崖っぷちに。

自業自得という言葉を知りながら、自分に当てはめることが無い。

山川草木、地球というすべては生命である。
生物なのである。

生き物である為に、
あなたがあなたにとってよろしくないものを排除しようとするように、
他も同じである。
それぞれにある能力、手段を用いて、
あなたにある人格にして、事がなされるように。

生物の格によって為されるのである。
その慈悲と無慈悲は、与えられたものの心が決めているのである。
為すものが決めたわけではない。

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