つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

平凡過ぎる人

2014-06-13 | Weblog
何せ忙しさに連れて
何分にもご無沙汰をする。
そういう人にして大したことも無く、とても平凡過ぎる人である。
時間の使い方の無頓着な人である。
それを、言葉を変えて我儘な人と言い、自己中という。
とても言い訳めいて自己擁護に固執、にべも無い人である。
あこがれは強くありながら、何一つ理想として行動が付かない。
一口に、ダメ○○につきる。
まぁ、気が付く(省みる)ことは無いだろう人である。
憐れである。
なぜなら、本人が気づきを持たない限り、憧れは憧れでしかない。
現実とはならない。
すべて気づきである。本人次第の。
如何なるものに於いても、それ以外無力である。
私があなたになれないように、自分の拠り所は自分以外ないのである。
そのうえで、憐れな人であるという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

垂訓

2014-06-12 | Weblog
人というのも優劣があるものだ。
同じににしてありながら違う能力。
その差は月と鼈の如くにある。
だから、
善い人に出会う事である。
仕合わせというのは、そういうところにある。
善い人に遇い善い人になれ、
慕われるという事はそういうことにある。
偲ばれるのは嬉しいことである。
さて、
私は般若心経に出会い、よく聴いた。
そして、訓えられ、
心経を心得た。
すると、
不思議なことに、よく守られた。
心経は不思議な経典である。
子供のように素直でさえあれば、即、
直ぐ適う。(正しく理解できるために)
智慧が分かる。智慧が付く。

「貧しきものよ、汝らは幸いである。
悲しきものよ、汝らは幸いである。
汝らは救われるだろう。」

このキリストの説いた垂訓も正しく理解される。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦り

2014-06-11 | Weblog
良薬は口に苦しという。

人生は苦に満ちていて、
だから、
価値があるのだろう。

甘い言葉と暗い道ともいう。

楽というのは薬にはならないものだ。
もし薬にして苦いばかりである。

楽は、まことに苦の種である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤裸裸な感情

2014-06-10 | Weblog
若いというのは艶っぽいものである。
男であれ女であれそれは同じである。
全くと言って大差は無い。
艶っぽい中で生きているに、
教養高らかに理性を語る。
感情を蔑んで理知を尊ぶも
感情による一面。
包み隠さずも甚だ素直にあり馬鹿でもある。
嗜みは大事である。
艶っぽいというのはそういう事にある。
感情による嗜みである。

赤裸裸は恥じ入る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あくせく

2014-06-09 | Weblog
あくせくとして一生。
短いものだ。
若い時の趣意は違い、重きに足らず
どうでもよいものである。
こだわりとはたかがそんなものである。
時と共に流されてあるもので、
これと言って執拗にないくだらないものである。
あの時は何だったのだろうという想いは取るに足らず、
無駄にしてとりとめも無い一生というものである。
何をあくせく生き急ぐ、死ぬとも知らずに。
それが多くの人の日常の無知。
ただ美味しく食べるのに夢中であるだけ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感受性

2014-06-08 | Weblog
もし、あなたが救われたいと思うなら、たった一つ方法がある。
仏の説いた般若心経を身に付けることである。
それは、仏の説くように
文字に惑わされさまたげられないように、正しく理解することである。
正しく理解されれば、誰に教わることも無く自然と行為となっていく。
その行為は紛れもなくあなた自身の盾となり、また、矛ともなり、
道を切り開いていくだろう。

道なき道を切り開くのは、誰が教えてくれるものでもない。
自然が指し示すものであり、その道理に従うだけである。
その道理を知るには知恵である。
智慧は、自然から学ぶ己の感覚、独特のものであり、自分以外に知り得ることはできない。
それぞれ個の独特の感覚である。それ故、他に訓えても訓えられるものでなく、気づく以外に術は無い。
受ける者の感受性である。それは個々違うものであるが、道理にして同じものである為に、
何一つ違いとなることなく、阿吽の呼吸となり、寸分違わず同じを得る。
仏の説くもの、あなたの得るもの、同一となるのである。

仏はこの世の人ではない。以前この世の人であったもので、あの世のものである。
あの世は法の絶対世界、生命の真実の世界である。
その真実の世界から語られているのが般若心経である。
それ故、この世の人の一切手が加えられることなく、真実が語られている。
その真実はこの世の経験とはならないために、理解しがたいものである。
だから、語られる文字に礙げられることのないように、また、心は自由であるために、
智慧をもって都合をつけていくことであると伝えられている。

さて、如何なものか、あなたの感受性は。送信するものがあっても受信するものがなければ、
それは見ていても見えないものである。
ただ漫然に日々が流れているようなものである。
キラキラと星がまたたいていても、ただそれだけである。
もし、感受することができれば、見えないでいるものが見られてくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

是非曲直迫りくる

2014-06-07 | Weblog
一月分ほどの雨の量が一日で降ったとニュースで見た。
本当に近年は世界中で天候異常が多くなった。
こんな風景があるのだろうかという怖くなるような天空の模様が有り、
海の様相も想像しがたい高さの量に膨れ上がる。
そんな先行き不吉な予兆を受けて、謙虚たる思いに馳せればまだ救われもあるのだろうが、
ただ気をもむばかりに気づかずにいて、
その有り様を受けて、地ははなはだ荒んでしまう。荒涼たる世界がただ広がるばかりである。

蟻の巣が無邪気?な子供のいたずらにかき回されて翻弄される有り様に、
何の因果が有るのだろうかと思いながら、小さくして生きているものへの侮りなのだろうかと、
返す返すも、その子供の無知の様の愚かさを思うものである。

私という者は、目が私であり、しかし、目が私?というのでもない。
手がわたしであり、しかし、手が私というのでもない・等等々、私というのは、
一つ一つの部分部分が寄り集まって、私という個になって表されるが、どれ一つとっても、
これが私という断定が無い。

部分部分、小さな小さな個別が集まって大きな一つの私という者になっている。
どれ一つ私というのでもなく、私ではないというのでもない。
その様にして寄り集まってできた形は大きなもので、遙か彼方からも見渡せるようになる。
その有り様は、それがすべてであるように物語り、様々に影響を及ぼし、偏に強靭強大である。

強靭強大なもの?としての振る舞いは、時として驕りに与り咎めが来る。そして、
ことごとくに打ちのめされて終てしまう。

この地球を宇宙(そら)から眺めれば、その宇宙(そら)の下、水満々湛えられていて、
小さく突き出てへばりつくように見える大地?に、
あたかもすぐさま覆い被さる様である。

遠いある過ぎ去りし時の中、四十日四十夜降り続いた雨が満たされて、
山よりも高く、全てを覆い尽くしたように、
無邪気を過ぎた子供達に襲い掛かる。
それは、法が繰り返しであるように、
邪悪に満ちたものへの浄化に過ぎない。

「歴史は繰り返す」そのように言われ、人は微塵にもその環状を知るも、
どうしてよいかうるたえるだけである。それは、驕りにも似て、‘自分だけは・・’という
生命の感情から来るもので、生命そのものを理解しない限り仕方のないことである。
法にただ無知なるが故にであるが、いたしかたない。

子供のように無邪気にしても、破壊行為はしてはならない。
すべてのものが、善きにつけ悪しきにつけ共で成っているのだから。
己が心にて主観であり客観になれず、客体になることはできず、
だから、すべてのものを殺してはならない、殺させてもならない。
裁けるのは自然だけである。理非曲直。是の為すことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014-06-05 | Weblog
「なぜ生きる」に死ぬためであると答え得るに、
奥深くを見る。
ただ単純にしても
とても難儀にある。
あらゆる日常は、ただ、この単純にして難儀にあることの
ありのままである。
それを深遠に見入るものの優れは、心の憂いから発せられ
恐怖からではない。
腑に落ちないのは心像から来るからくり。
よくよく心してかかるに、暴かれる真理である。

死ぬために生きるのであれば、生きる意味が無いという
馬鹿は言わない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

○○は一日にして成らず

2014-06-04 | Weblog
よいものはある程度長い時を要して成る。
歳月がいるのである。それをまたずに早速にして事を成すに、
一時に於いてのみ取り敢えずとして適えるは、取りも直さずに尽きる。
それこそ、早急にして地道をこつこつとなすに並行するものである。
それが、どこかで交叉して取り違え、平行してしまえば優劣が生じて、
劣悪なるものとして害となる。それは、怠慢からくる。
なのに、それが当たり前となって、一時を忘れ常時として為してしまう。
その果は、願わずも悪果となるに知れても、同化してしまい気が付かなくなる。
一時的を常時に置き換えて不具合が生じ、それが因と見るに難儀である。

様々な苦悩、楽を求めるあまりに難儀をせず、
近道にして安易。案じるにある。

春には春の花が咲き、夏には夏の花が咲く。秋には秋の花が咲き、冬には冬の花が咲く。
夏に冬の花が咲くことは無く、冬に夏の花が咲くことも無い。
春に秋の花が咲くことが有れ、秋に春の花咲くことが有れども、時として狂い咲きにとどまって、
何とか春夏秋冬それぞれを得る。真逆、夏に冬の花咲かせば、道理は立たない。
その様にして、世は自業自得に末を向かえる。

時は悠久にしてある。劫にして刹那を思えるもので、
人生も長いようでとても短く思うものである。

似非として、擬きとして生きていくものではない。
個に本物の人生である。短くして長い人生と思ってはならない。
生き急がなくとも、死に急ぐことなく、
全うして生きて、ただ人は死ぬために生きると知る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受の世界

2014-06-01 | Weblog
宿命と運命。
この命、どう運んでいくか、運んできたか、
命運は自分のなせる業に掛かる。
すべてが自業自得の現象にあるが、無垢から無知に左右され垢が付く。
垢は、こびりつきながらもはがされていき、清水のようになる。
それは、善きにつけ悪しきにつけ徳である。
それが浄化である。寿ぐ命である。
寿命、長短に非ず、受にして疾く疾く得(徳)にして徳(得)と為す。
この世は受想行識の世界。
だから、
良くも悪くも心次第。宿運にしての
どのように運ぶかの命、運命である。

不運にして悪運強くとも、
悪運に絆されないように。

好運にして幸運となるのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする