つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無知にあるもの、ただ、なぜ生きると問うが・

2015-10-24 | Weblog
死ぬために生まれてくることを覚ることができなければ、
人生何もかも間違った生き方となってしまう。
まぁ、死ぬために生まれてくるという意味を分からなくても、
善いこと、善行に生きて一つの人生を終われば、
それなりに気づきの魂となり、なぜ生きる?という疑問に答えを見出せてくる。
魂とは何なのか?心とは何なのか?生命とは何なのか?精神とは何なのか?
神?仏?何者なのかという意味合いがそれとなく気づき始められるものとなる。

人に、九つの品があり、その品の中にも上下の優劣なる質があるのは、
エネルギーの充実にある反応、たとえば、鋭く輝くエネルギー、あるいは、鈍く光るエネルギー、
そのより多く束なったエネルギー、極薄いエネルギーなどの力加減に由る。
それは、
エネルギーの経験とでも言える刺激への反応である。
黒く濁った漂いに吸い付けられた反応、白く、或は、黄金色の漂いに吸い寄せられた反応の違いである。
それは、雨水が地面に滲みていき、浄化され清水となって現れてくるようなものである。
長い長い年月を要するが、無くなることのないという性を持つエネルギーには、悠久も瞬間も無いもので、
必ず経験するものである。
生命エネルギーは、各肉体という媒体によって浄化活動をするもので、肉体経験が生命エネルギーの進化向上の手段である。
人の生命の媒質となるものが肉体となっている。その肉体の経験が、生命への波動となって伝わっていく。
良い経験となって伝えることが善い生命の性格となって行くのである。
その肉体も、生命エネルギーの外部から受ける刺激により反応して作られていく。凡そ縁という刺激に由るものである。
‘生まれながらにして’という姿形も、生命エネルギーの知るべきところにある縁による反応である。
生まれながらの姿形、環境も生命エネルギーの進化向上の故の縁に由る気づきのための享受である。
さながら、それについて恨みつらむことは、偏に情けないことであるが、人、ただ無知にして情けないものである。
生きていく中で、
人生とは辛いものであると気づくが、気づくころにはほぼ肉体は衰えていて、
後の祭りという事が多分である。それでも、気づいたという事に一抹の希望を見出せるものである。
人は、年老いるごと角が取れて円くなっていく。それが自然と浄化されていった精神の表れであるが、
年老いても尚気が荒く、憎々しく思われて生きている人がいるが、
正しく浄化されてこなかった人生であり、長く久しく苦しみの世を何度も繰り返す羽目を背負うものである。
それこそ人生、自業自得であり、それは偏に、生命エネルギーいうものへの無知に由るものである。
たとえば、浅ましく吝嗇に生きたものは、餓鬼の世界に、残虐性に生き、行為に及んだものは喰い喰われる世界に、
暴力に生き、他を困らせたものは修羅の世界に・・・、など縁によって生命世界が創られる。
そんなところに生まれたくないといっても、自分が作っている世界であるために、当然の如く赴くこととなっている。
また、この人生がつらい苦しいからと言って自殺行為に及んで逝ったとしても、苦しいと死んでいったものは、苦しいままのあの世となっている。
それは、法が縁の法則でもあるためである。
エネルギーの法則は絶対世界である。慈悲で動く世界ではない。

生命エネルギーは、是によって作られているエネルギーの法則と同じである。
そのために無くなることが無く、生命には死というものは無い。
肉体の滅びた後の世界が、生命そのものの住む世界である。
その世界が幸せな世界とするために、肉体をもって生命は活動し、生命の浄化、叡智を得るために生まれてくるものである。
正しい浄化となった人生に於いては、来世というのは無く、輪廻より離れ、
永遠なる幸せな生命世界で暮らすこととなるものである。
それを得るまで、
人はなんどもなんども苦しみの世を行き来する。この世は一切皆苦である。
そこから何を悟るのか?どんな生き方をするのか?自分自身の気づきにかかっている。
だから、無知をなくせ、是を知り、生命エネルギーを知ることである。
そうすれば、方法が分かり、誰に頼ることもなく、
どういう生き方をすればよいのかが知れてくるものとなる。智恵であり、自然と知れてくるのである。
それが法の功徳である。
エネルギーの法則は、「自由」から成り立っているものである。
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