唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (53)

2017-04-14 21:59:55 | 阿頼耶識の存在論証
  
  七種の内の三番目です。
 「三には余境に非ざるが故にと云う。大乗の所説は、広大甚深にして外道等の思量の境界に非ず。彼の経論の中に曾って未だ説かざる所なり。設い彼の為に説くとも亦信受せざらん。故に大乗経は非仏の説に非ず。」(『論』第三・二十一右)
 三番目の理由は、「非余境」である、と。大乗の教えは、外道や小乗とは違うと述べています。大乗の所説は、広大甚深、非常に勝れていて深いものであって、外道や小乗などの思量の及ぶところではない。また、小乗の経典や論書の中にも説かれてはいなしし、外道の論書にも説かれてはいないのである。もし広大甚深の教えが説かれていたとしても、彼らは信受しないであろう。ここを以て、広大甚深の教えを説く大乗経は仏説なのである。
 次は第四番目です。
 「応極成」(共通の理解が得られる)と言っています。
 「四には極成すべきが故にと云う。若し謂わまく大乗は是れ余の仏の説なり今の仏の語には非ずといわば、則ち大乗経は是れ仏の所説なりということ、其の理極成しぬ。」(『論』第三・二十一右)
 問を想定して答えています。
 もし、大乗は迦葉等の余仏の言葉であって、お釈迦様の言葉でないとするならば、それは極成(一般に認められていること)して大乗は仏説であるということである。
 確かに、この七種の論理には無理なところがありますが、一応は論の中で説かれていることですので、読んでおきます。
 ここもですね、揚げ足取りのような形なのですが、仏説ではないとしながら、余仏の説であると認めているのであるならば、それは仏説であろういうことなんですね。
 五番目の理由です。
 有・無有(大乗の教えが有・大乗の教えが無有であっても、大乗は仏説である)
 「五には有と無有との故にと云う。若し大乗有らば即ち応に此の大乗教は是れ仏の所説ぞということを信ずべし。此れに離れては大乗というもの得可からざるが故に。」(『論』第三・二十一左)
 この科段は『荘厳論』を引いて開合しています。
 「『荘厳論』の第五の体と第六の非体との二を合して一とす。彼しこ(『荘厳論』第一)に言く、有体とは、若し汝余仏は大乗の智の体有れども此の仏は大乗の智の体無しと言はば、亦已に我が義を成じぬ。大乗は異なること無し。体是れ一なるが故なり。非体とは、若し汝此の仏には大乗の体無しと云はば、即ち声聞乗も亦体無かるべし。若し声聞乗は是れ仏語成るを以て体有り、大乗は然らざるを以て仏乗無しと言はば、仏世に出でて声聞乗を説くこと有らば大なる過有るが故にといえり。」(述記』第四本・三十二右)
 面白い論証の仕方ですね。「有」というのは大乗の教えが有るというものです。当然仏説になります。「無有」の場合ですが、大乗の教えが無いとするならば、小乗の教えもない事になる。ここは声聞乗が説かれていることが論拠になります。二乗の教えは当然仏乗が想定されます。仏乗が説かれて初めて二乗の教えが生きるわけですね。声聞乗が仏語で大乗は非仏語であるというのには過失がある。大乗を離れて佛に成る教えはないときうことになります。 (つづく)

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (52)

2017-04-12 22:32:24 | 阿頼耶識の存在論証
  

 本科段は『荘厳経論』巻第一(大正31・591a)を引用して、大乗は仏語であることを論証します。
 「聖慈氏(弥勒菩薩)は七種の因を以て大乗経は真に是れ仏説なりと証したまえり。」(『論』第三・二十左) 『荘厳論』の頌は弥勒菩薩の所説で、長行は世親の所為であるといわれています。
 弥勒菩薩は七種の理由を挙げて、大乗経は真に仏説であることを証明しておられる。
 一通り読んでみます。
「一には先に記せざるが故にと云う。若し大乗経は仏滅度の後に有余の正法を壊せんが為の故に説くと云はば、何が故ぞ世尊当に諸可怖(ショカフ)の事起こるべしというが如く先に預め記別したまわざりし。」(『論』第三・二十一右)
 一番目の理由は、あらかじめ記録されていない(先不記)というものです。
 小乗仏教側の批判があったのでしょう。「大乗経は是れ正法を壊せる者の所説なるが故にと云う」大乗経は、仏滅度の後に、お釈迦様が説かれた正法を破壊する者が説いたものである。大乗非仏説という批判ですね。
 「若し爾らば何が故ぞ世尊預め記別したまわざる」
 この問いかけは大変重いことを言っています。仏陀は仏滅後の教法を正・像・末の三時に分けて予言をされています。大乗仏教興起の折は像法の時ですね。この時に大乗仏教が正法を破棄するとは予言されていないのである。従って、大乗仏教は仏の直説である、というものです。
 二番目の理由は、本倶行(本より倶行(並行して)するが故に)と云う。
 『荘厳論』には、同行(大乗と小乗は)であると。同行とは、同一時に行ずること。大乗教と小乗教とは並行して説かれるべきものであって、大乗だけが非仏説と云われるのか、と。
 「二には本より倶行するが故にと云う。大・小乗教は本よりこのかた倶行す。寧ぞ大乗のみを独り仏説に非ずということを知るや。」(『論』第三・二十一右)

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 『解深密経』序品第一の記載と『摂大乗論』の十八円満の記載を記します。述べ書は後日にします。
 
「如是我聞。一時薄伽梵。住最勝光曜七寶莊嚴。放大光明普照一切無邊世界無量方所。妙飾間列周圓無際。其量難測超過三界。所行之處勝出世間。善根所起最極自在。淨識爲相如來所都。諸大菩薩衆所雲集。無量天龍藥叉健達縛阿素洛掲路11茶緊捺洛牟呼洛伽。人等常所翼從。廣大法味喜樂所持。作諸衆生一切義利。滅諸煩惱災横纒垢。遠離衆魔過諸莊嚴。如來莊嚴之所依處。大念慧行以爲遊路。大止妙觀以爲所乘。 大空無相無願解脱爲所入門。無量功徳衆所莊嚴。大寶花王衆所建立。大宮殿中。」(『解深密経』大正16・688b)

 「論曰。復次諸佛清淨佛土相云何。應知如菩薩藏百千契經序品中説。謂薄伽梵住最勝光曜。七寶莊嚴放大光明。普照一切無邊世界。無量方所妙飾間列。周圓無際其量難測。超過三界所行之處。勝出世間善根所起。最極自在淨識爲相。如來所都。諸大菩薩衆所雲集。無量天龍藥叉健達縛阿素洛掲路荼緊捺洛莫呼洛伽人等常所翼從。廣大法味喜樂所持。作諸衆生一切義利。蠲除一切煩惱災横。遠離衆魔。過諸莊嚴。如來莊嚴之所依處。大念慧行以爲遊路。大止妙觀以爲所乘。大空無相無願解脱爲所入門。無量功徳衆所莊嚴。大寶花王之所建立大宮殿中。如是現示清淨佛土。顯色圓滿形色圓滿。分量圓滿方所圓滿。因圓滿果圓滿。主圓滿輔翼圓滿眷屬圓滿。任持圓滿事業圓滿。攝益圓滿無畏圓滿。住處圓滿路圓滿。乘圓滿門圓滿。依持圓滿復次受用如是清淨佛土。一向淨妙一向安樂一向無罪一向自在。」(『摂大乗論』大正31・376c)
 
 


阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (51)

2017-04-06 23:06:30 | 阿頼耶識の存在論証
  
先日、専立寺さんの永代経の法話で、墨林先生が、国という字の使い分けについて、日蓮上人の『立正安国論』に国の字が四字使われていることをを引き合いに出されて、国土の問題を話してくださいました。この問題にたいして、にしはら君が「ブッダクシェートラ。クシェートラを国土と古代訳経僧が翻訳しましたが、モニエルでみますと、畑、、fieldと記載されていたことも印象的でした」ととても興味あるコメントを寄越してくれました。
 そして梶原先生と、墨林先生の貴重なコメントを頂きました。
 K 土は受用を表します。国は領域を表します。土の意味合いならfield が似合います。邦は内として護られる世界でしょう。宗祖は浄邦縁熟してと言われます。しかし、国、土、邦、さらに刹が厳密に分けられるものではないでしょう。それらが国家概念を作っていることを考え直さなければならないと思います。
 S 日蓮上人が「立正安国論」で国という文字を、囲みに「王」、「玉」、「域」、「民」の文字を使い分けしているのも国家概念なんでしょうね。
 このことに関してですが、
 経典では国は「國」が使われていました。國は旧字体ですが、親鸞聖人は新字体の国の字を使われています。
 日蓮上人はその主著において、國という字の使用頻度が約80%にのぼっています。そして囻が多いです。そして略本には囲みに「王」の字の使用例があります。そして新字体の国が使われていますが、国家の枠組みを考えておられたのかも知れません。娑婆即寂光土を説く『法華経』の宗体から、草木国土悉皆成仏の田地の具現化を囲みに「王」、「玉」、「域」、「民」の文字を使い分けの中で国家の在るべき姿を考えておられたのでしょうか。
 最近の研究では、この「くに」の字の使用に対して、國はLand、囻はNation、国はState・Countryという意味ではないかと云われています。
 古くは、三宝を国の柱として政事をされた聖徳太子がおいでになります。宗祖は太子を「和国の教主」として崇めておいでになりますが、なにかここに国土荘厳のヒントを得られていたのかも知れません。
 ここで、唯識の四分義ですね。「識体転じて」という、能変と所変、能は「~に指向する」働きを持って、所は「指向されるもの」として、指向されることにおいて意味を持つわけですね。そして具体的に認識が生起する時に、認識するべき能縁、この場合の縁は増上縁ですが、何を増上縁としているのかというと、身と土ですね。そして身と土を作っているのが種子になるのでしょう。種子の具体化、現行が界・趣・生を引き起こしてくるのですね。起こされたものは異熟として真なるものです。界は種子という意味ですね、「無始時来界」と。しかしこの界は土を現わします。三界或は勝過三界です。有漏か無漏か、土は種子によって受用されるものでしょうね。
 種子と身体と器界を所縁として能動的に働いてくるのが行相了別ですから、自我意識である末那識は、この行相に対して執着を起すわけですね。すべてを染汚すると教えられています。自我分別意識でしか私には判断基準の能力しかないわけです。もう一つの単位で云いますと、量ですね。「はかる」自我意識で判断する、それ以外に判断する能力は持ち合わせていないのです。
 こういうことを考えていきますと、仏教が国土荘厳、清浄土を願として歩むのは、光として照らし出される此岸の中に「すでにして悲願まします」。一念一刹那の中に闇が闇としての自覚を知り得るのではないでしょうかね。それが第二能変の発見になるのでしょう。所依が変わるのですね。それが三依釈によって明らかにされたわけでしょう。
 五念門と二十九種荘厳と十八円浄の論文をあげておきます。
 

 

雑感

2017-04-04 23:35:50 | 雑感

 ブログに、にしはら君が貴重なコメントをくれました。国土はfieldと翻訳されている文献があります、と。国・国土のことですが、僕たちのイメージとしてはどうでしょうか。僕は、日本国・米国・英国等の国家を思い浮かべてしまうのですが。国家は国土の上に立っているわけでしょう。counntry或はlandと翻訳されます。浄土はcountryなのでしょうか。本願文でも先ず国土荘厳が説かれます。「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」。そして国中人天に対して願いがかけられますね。依正二報は相離れずことを以て国土が語られているわけですが、土は本来無分別ですね。そこに国家を形成するのは人間の分別の上に立っている事柄でしょう。歴史的にみても国家は流動的です。分別起のものですね。有漏の種子に依って共依されている環境であるわけです。
 有漏の種子に依って覆われてしまっている環境も、fieldとしては無分別であるわけです。野原とか地面と翻訳されますが、国土荘厳は、野原とか地面が持っている無分別性を明らかにしようとしたのではないのかなと思っているんですが。そこに還れば平等の大地、水平の地平が存在する。それは存在性を超えた無為無漏の真如法性の世界であるわけでしょう。清浄仏国、つまり浄土と翻訳されていることなのでしょう。浄土はcountryではなくfieldだと。土の叫び、それが本願なのかも知れませんね。
 そしてそこに還れば、還った功徳として、土の叫びが与えられるのではと思うわけですが、国中人天から十方衆生に呼びかけられ、二十二願を境に菩薩衆へ、そして国土清浄にして、やがて国中人天へ願いがかけられる、これらは、counntry或はlandの出来事ではなく、fieldとして人天としては還っていくべく場所であり、菩薩としてはそこから願いをかけ得られる場所として、国土はfieldと翻訳されたのではないのかな、と。にしはら君のコメントから伺いました。
 国土荘厳が問題なのではなく、人間の分別心が領土の奪い合いになり、政争の具になり、境界のいざこざになる愚かさを、国土荘厳をあらわすことにおいて彼岸は此岸の問題であることをはっきりさせたのではないでしょうか。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (50)

2017-04-03 23:16:49 | 阿頼耶識の存在論証
 桜の開花も寒さが影響して遅れていましたが、四月に入ってからの陽気で一気に開花しました。そしてもうすぐ灌仏会、お釈迦様のお誕生日です。 
 今日は、「量」についてですね。
 四分義のところでは、一つの認識が成り立つ為の要素として量が用いられていました。所量・能量・量果ですね。
 本科段での「量」は、至教量(シキョウリョウ)に摂めると云われています。現代の言葉でいえば、判断基準になる単位を量という、こういうことでしょうかね。仏陀の教えをもって判断の基準とする、これが大事なところです。『浄土論』に三依釈が説かれます。
 「我依修多羅真実功徳相説願偈総持與仏教相応」(我修多羅真実功徳相に依て願偈を説いて総持して仏教と相応す)
 曇鸞大師は「依」について質問を投げられたのです。成上起下の偈義と云われています。『論註』の釈は「上の三門を成じて下の二門を起す」(礼拝・讃嘆・作願を成じて観察・回向を起こす)「依」は仏語に依るということなですね。仏語は発遣の教主であるお釈迦様の真意になるわけです。そこに招喚の弥陀との呼応関係が成立するのでしょう。
 曇鸞大師は「依」を大切になさいました。
 何所依 - 修多羅に依る。
 何故依 - (如来は)真実功徳の相成るを以ての故に。
 云何依 - 五念門を修して相応するが故に。
 最初の修多羅なのですが、「三蔵の外の大乗の諸経を亦た修多羅と名く」とあります。
 そして、国土荘厳が展開されるのです。十七の荘厳功徳が説かれますが、『摂論』の十八円浄にその元はあるわけです。国土は衆生に受用される器ですので、依報(環境)といわれています。そして異熟果としての衆生世間を正報といいす。
 日蓮は『一生成仏鈔』の中で「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。」と教えてくださっていますが、所依が大事になってくるのですね。修多羅に依る、そして仏教と相応するのだと。
 本科段では至教量と教えておられるわけです。聖教量という言い方もあります。
 知るということが量なのです。私たちは物事を知る時には三量という判断の基準をもって知りえる、認識しているのですね。認識の主体は見分なのですが、見分は三量を持っていることになります。つまり、現量(ゲンリョウ)なのか、比量(ヒリョウ)なのか、非量(ヒイリョウなのかです。
 現量とは、現は、ありのまま、離言の理になります。言葉を離れた、言葉を用いずに、ものそのものを間違いなく捉えて認識することで空の世界でしょうかね。前五識と第八識は現量であるのです。「迷乱の義無きが故に」(『雑集論』)と云われています。
 比量は、比較の上に成り立った認識のあり方と云って云いのでしょうか。聞法も比量でしょうね。離言ではありませんで、言葉を用いた論理的思考になりますね。聞法ですが、聞くということは現量なのでしょう。現量の上で推量するわけです。譬として「遠くに烟を見て彼に火ありと知るが如く、現量を先と為して比量す」といわれています。
 非量は、間違った認識のあり方です。我愛現行執蔵位は非量ですね。正しくない現量(似現量)、正しくない比量(似比量)をいいます。第七末那識がこれにあたります。
 ですから、私たちがものを知っていくのは現量と比量に依るわけです。非量は間違い、迷いですが、現量に迷い、比量に迷っていることになり、迷いそのものは無いということでしょう。本来迷いは成り立たないのですね。




阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (49)

2017-04-02 12:41:26 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第八識の存在論証を上来は、『大乗阿毘達磨経』の頌を二句、『解深密経』・『楞伽経』を引用して説いてきましたが、これらの経典は大乗経典を引用しての論証であったわけです。そのことを、
 「此れ等の無量の大乗経の中に皆別に此の第八識ありと説けり」(『論』第三・二十左)
 と述べられていました。
 此れからは、大乗非仏説論に対して、大乗は仏説であることを論証していきます。
 「下は外人経を以て定量ならずとす。至経と為すことを許さざるが故に。」(『述記』)
 至経とは、釈尊によって説かれた教えですが、ここでは至経量と、大乗の経典は釈尊が説かれた教えの判断根拠にはならないと批判しているのです。
 そしてですね、
 「自下は初に比量(推量、推し量るという推測のことで、現に認識されるものを通して認識されないものを推し量るという論理的思考)を以て大乗は是れ仏語なりということを成ず。」(『述記』)
 そして『荘厳論』を引用して大乗は仏語であることを論証します。
 
 「諸の大乗経は皆無我に順じ数々趣(ソクシュシュ)に違せり。流転を棄背(キハイ・そむく)し還滅に趣向せり。仏・法・僧を讃し諸の外道を毀(ソシ)る。蘊等の法を表し勝性(ショウショウ)等と遮す。
 勝性とは、勝論が説くプラクリテーという実体的に存在的に存在する物質的な原理をいう。
 大乗を楽(ネガ)う者の能くむ顚倒(テンドウ)の理を顕示する契経に摂められると許すが故に。増壱(ゾウイツ)等の如く至教量に摂むべし。」(『論』第三・二十左)

 ここは何を言おうとしているのかです。私たちは大乗仏教を学んでいますから、余り問題にならないのですが、仏滅後仏教徒は戒を重んじました。『俱舎論』を拝読いたしますと戒・律・論の三学が如何に厳しいものであったのかが伺えますが、出家の仏教だったんですね。いえば、庶民にとっては関係のないところで仏教が学ばれ、修行がされていたことになります。
 ここに仏教徒から、一つの批判がでてきました。それは、出家仏教が果たしてお釈迦様の真意に叶っているのであろうか、ということなのです。お釈迦様の教団には、比丘・比丘尼・優婆夷・優婆塞という出家も在家の求道者もおられのです。初期の経団には、男女の差別も無く、出家・在家の差別も無く、道を求める純粋なものであったのですね。こういう反省が仏滅後500年位経ってから、大乗仏教興起の兆しが起こってきます。そこで初期の大乗経典が造られるのですが、お釈迦様の真意を伝えるものとしての経典です。この時代は、部派仏教の修行者と大乗仏教の修行者が混在した時代なんですね。部派仏教からしますと、大乗仏教に貶められてというでしょうね。部派の仏教は小さな乗り物と誰が決めたのだ、ということです。
 大乗側からすれば、貶するには貶する理由を立てなければなりません。
 其の理由が上の文章で示されます。
 五つの理由にわけられます。
 (1) 「皆無我に順じ数々趣に違せり。」
 (2) 「流転を棄背(キハイ・そむく)し還滅に趣向せり。」
 (3) 「仏・法・僧を讃し、」
 (4) 「蘊等の法を表し勝性(ショウショウ)等と遮す。」
 (5) 「大乗を楽(ネガ)う者の能く無顚倒(テンドウ)の理を顕示する契経に摂められると許すが故に。」
 大乗仏教は無我を説きます。古くは阿含でも説かれていますが、仏陀の教説は、我を認め、輪廻する主体があることを認めません。これが第一の理由です。無我を説いている大乗仏教は仏説であるということですね。
 私たちは、迷いだとか覚りだとか天秤にかけて物を言いますが、もともとは滅が居場所なんでしょう。居場所から離れて迷っているのを、元の居場所に還っていく道を明らかにしている。道理ですね。道理にはずれると、道理として迷うのです。
 「篤く三宝を敬え」とは聖徳太子のお言葉ですが、お釈迦様の教団はサンガ(僧伽)です。仏・法・僧の三つの宝が和合して修行がされていたのですね。大乗仏教も三宝を敬い帰依し、そして外道の説を毀している。
 五蘊・十二処・十八界は『倶舎論』のなかでも説かれていますが、もとは阿含経典ですね。お釈迦様のお言葉を集めたものですが、、この五蘊の教えも大乗仏教は説いている。
 「顚倒の善果能く梵行を壊す」と云われていますが、お釈迦様の説法は、無顚倒の理を明らかにされたのですね。それは増壱阿含経のなかでも説かれているように、無顚倒を説く大乗仏教は仏説である根拠になるというものです。
 お釈迦様の真意であることは、
 大乗仏教は無我の教え、
 迷いから悟りへという還滅の教えである。
 三宝を讃え、生きる所依を明らかにしている。
 そのことの全体が、お釈迦様の教えを依り所にしていく。量ははかると云う意味ですが、判断の基準です。お釈迦様の教えを判断の基準としている。これが至教量です。
 ここで三量が問題になるわけですが、以前にも簡単に学ばせていただきました。明日はもう少し丁寧に読めたらと思っています。