唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (58)

2017-04-21 21:41:05 | 阿頼耶識の存在論証
  
 読者よりお便りをいただきましたので紹介します(本人の承諾済みです)
 「他者の痛みを感じる事はできない。共有することもできないでしょう。しかし他者の痛みを理解したい、取り除いてあげたい。と言う気持ちは重要なのではないでしょうか?様々な病を人類は克服してきました。不治の病も今では治る病になっています。これは、他者の痛みを共有したい。といった感情から産まれてきたのではないでしょうか?自分自身の問題と捉え、他者の痛みは自身の痛みと捉えてこそ、自分自身を知ることが出来るのではないでしょうか?
他者が今何を考えているか?知りうる事は不可能でしょう。他者ですら自分自身の影であり、揺れ動いている。と感じます。揺れ動いているから捕まえられない、影だから追いかければ逃げてしまう。どうすればよいのでしょう。留まる事、今を見ることが、感じる事が重要なのでは。しかし今もこうやって文章を書いている今でも留まる事はできません。留まる事すら、揺れ動いているのも止める事も出来ないのが自分自身でしょう。
留まろうとする。無駄な行為でしょうね。変わっているのは見ている風景ではなく、自分自身。自分自身を捕まえる事は、出来ない。なら流れに任せるしかないのではないか。そう感じます。
生きていく上では、迷うことが多々あると思われます。選択枠がある場合は、本当にこれで良かったのかと迷い、無ければ無いで迷っているのが人間だと思われます。もう迷わない、と思っていても迷うのが人間でしょう。
ではどうすればよいのでしょうか?迷いの上でしか生きられないのが人間だと思わなければならないでしょう。迷いの中で生きていけば良いのだ。と思って生きていきたい。と最近感じます。
変わらない物はない。とよく言われますが、それは自分自身の事かもしれません。自分自身は変わらない、この感情が、自我というものの本性かと感じています。
昔なら絶対に知り合いにならなかった方と付き合いがあります。驚くべき事です。知らなかった、新しい事を知ることが出来ました。ただそれをただ単に知っただけでは駄目でしょうね。自分自身の問題として捉え、これは全て自分自身が招いた事、すべては自らが選んだものとして捉えなければならないでしょう。そうしなければ争いが起きた場合、すべてを他者のせいにしてしまい、自分自身を正当化してしまうでしょう。
人生においてほぼ全ての出来事は自分自身が招いた事。他者のせいには出来ない。厳しい事と感じます。他者との縁は全て自分自身が選びとったもの。と感じています。
また他者と関わった以上、他者の人生にも影響を与えます。それを忘れて他者を善悪で判断する事は出来ません。他者は自分自身を知る鏡として見なければなりません。成長出来るか?それとも自分自身に閉じ籠ってしまうか?いつも自分自身の中で戦っているのが人間なのでしょうね。」
 もっとあっけらかんと生きれたらと思います。でもよく考えて頂いていると思い、感謝します。
 今日は有部の説から阿頼耶識の存在論証がされる一段です。増一阿含経(Ekottara Āgama)からですね。
 阿含経は四阿含と云う体系を持っています。増一阿含・中阿含・長阿含・雑阿含です。
 「四の阿含経有り。一には増一と名づけ、二には中と名づけ、三には長と名づけ、四には雑と名づく。明かすこと一法従り増して百法に至るを以て増一と名づけ、略にも非ず広にも非らずして義を以て明かすを以て名かと名づけ、若し事義を明かすに文広なるを以て長と曰ひ、雑雑に事を明かすを名づけて雑と為す。増一の中に於て阿頼耶を名づく。」(『述記』第四本・三十六左)
 「愛を起し著する所は必ず阿頼耶ということを顕す。・・・阿頼耶識は是れ真の愛著処なり。」
 執蔵の義からの発言でしょうが、愛著処ということが深い意味を持っていますね。すべてを受けいれていく領域としての蔵識ですね。それだけ愛著処は深くて広いのでしょうね。浄土は、三界の道を過ぎたり、広大にして無辺際といわれますが、阿頼耶識の深さと広さは、如来の遍智でしょう、そのように思えるんです。
 「説一切有部の増一経の中にも亦密意を以て此れを説いて阿頼耶と名づけたり。謂く愛阿頼耶・楽阿頼耶・欣阿頼耶・喜阿頼耶と云う。」(『論』第三・二十三右)
 阿頼耶とは、阿頼耶を愛し、阿頼耶を楽い、阿頼耶を欣び、阿頼耶を喜ぶという。全ての生起の原点が阿頼耶なのですね。
 愛・楽・欣・喜と云う表現で、いのちの願いが表されているのではないでしょうか。 (つづく)