六番目の理由を述べます。
「能対治」です・。
能はよく、対治は滅ぼす力があるということですね。一切の煩悩を対治する力があるということですが、これは仏説でなかったなら云えないことです。大乗の経典に依って修行する者は無分別智を起し煩悩を対治すると云われます。
「六には能対治の故にという。大乗経に依って勤めて修行する者能く無分別智を引得して、能く正しく一切の煩悩を対治す。故に応に此れは是れ仏の所説ぞということを信ずべし。」(『論』第三・二十一左)
六番目は能対治、よく煩悩を遠離する力があるから。
大乗経によって修行する者は、無分別智を得ることができる。そしてよく一切の煩悩を対治する。煩悩を対治し、無分別智を起こすことは仏説でなかったらできないことである。よって大乗経は仏説であると信ずるべきものである。
七番目の理由は、
「義異文」をもってですね、「大乗は意深し、文に随って其の意を取って便ち誹謗を生ず可からず。」(『述記』)
「七つには、義文に異なるが故にと云う。大乗の諸説は意趣甚深なり。文に随って其の義を取り便ち誹謗を聖じて仏語に非ずというべからず。」(『論』第三・二十一左)
義異文の意味は、文字に表されていることよりも、その真意は深いものである。
「大乗の諸説は意趣甚深なり」と。表面上の文意だけを取り上げて大乗は非仏説であるといういっているだけである。
以上が『荘厳論』で述べられている大乗は仏説であるという理由になります。
結び
「是の故に大乗は真に是れ仏説なり。」(『論』第三・二十一左)
以上の『荘厳論』の七つの理由が『荘厳論』の頌を引いて証としています。
「荘厳論に此の義を頌して言うが如く、
先不記と倶行と、余の所行の境に非ざると、極成と有無有と、対治と異文との故にという。」(『論』第三・二十一左)
次回より第五教証に入ります。