「愛を起して著する所の処は必ず阿頼耶ということを顕す」(『述記』)この慈恩大師の釈に深さを感じるのですが、阿頼耶を愛するとは、どういうことなのでしょうか。「我というは主宰、法というは軌持」という定義がされていましたが、この定義を伺いますと、私たちは大きな錯誤をしているように思いますね。
我・法は執着されるものではないということでしょう。ですと、私たちは執着を離れている所を愛しているということになります。有ということに執着し、壊したくない、壊れないでほしいと云う不安から苦しみ、無と云うことに執着しています。無かったら困るわけです。欲しいと思い、捉われていきます。有無に執着をしているのが私たちなのでしょう。でも、阿頼耶を愛すると云うのは、有無を超えた無我なる私を欲しているのではないですか。
無我と云う警告信号が「あんたの愛することは間違っている」と教えているのかもしれません。慈愛が我愛に光をあて、我愛から出る一切のことは苦であると知らしめているのでしょう。
「田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。・・・田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。」(『大経』)
我愛からでるものは分別しかないのですね。分別は斬るのです。分けるのは、一つのものを二つに斬ったということですね。私たちの意識構造は分別の塊です。分別の塊を無明と押さえられたのでしょうが、無明は自分だけが頼りなんです。漆黒の闇の中では、何を依り所とするのか、それは自身なのです。自身を離れたら自分そのものが無くなってしまうという恐怖にかられます。智慧がないからですね。
愛・楽・欣・喜の四の体は貪(第七識相応の心)であると云われていますが、まさに貪欲ですね。有れば無くしたくないと云う貪欲、いつか壊れるのではないのかと云う怖れを懐きます。無ければ欲するという貪欲です。これは説明いりませんね。自分の依頼心が他に投影しているだけに過ぎないのですね。この心が無始よりずっと相続して私の所まで伝わってきた、そこに願いがあるのでしょう。「気づけよ」ということですね。「一番あてにならんものを当てにしているのと違うか」とですね。
このことを文章化しますと、
「有情執して自の内我と為す」となるのでしょう。「内我」とは他我を簡びますから、不変なる我(常一主宰の我)として阿頼耶識を執している。阿頼耶識は流の如しですから、澱みなく流れているのですが、それを堰き止めるのが我です。そこにはヘドロがたまります、それが煩悩ですね。煩悩を作り出しているのは我の他にはないのです。
輪廻と無常とはよく似ているんです。輪廻には主体があるわけです。我と云う主体ですね。我という主体が、他我によって妨げられることを生死輪廻というわけですが、無常には主体はありません。縁起のままにです。縁によって生まれ、縁によって死んでいく、ただそれだけです。ここに安住できるか否かでしょうね。人生の課題はね。
先ほども書きましたが、わからんからつかみたいのでしょう。自分のことは自分が一番わかっていると云う妄想が働いていますから、自分にしがみつくのですね。当然のことです。ぼくもずっとしがみついています、そして流転を繰返しています、馬鹿ですねぇ、暗闇の中を彷徨っているのがわからんのです。
我執の愛着処が阿頼耶識(我執に依って阿頼耶識が愛着処になる)であるのですが、また阿頼耶識が転依の鍵をもっているということになるのでしょう。ですから「真の愛着処」と云われる所以なのではと思います。
今日は愚痴に終始しました。ごめんなさいですm(__)m