唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (61)

2017-04-26 19:59:49 | 阿頼耶識の存在論証
  
 愛阿頼耶という、阿頼耶が愛おしいのでしょうね。愛おしいから執着をする、執着しています。満たしたいと云う欲求です。それは我心の隙間を埋めたいというものでしょうね。きつい言葉でいえば、相手を利用する心でしょう。相手に投げかけた愛は、本当は自分への愛であったのでしょう。
 慈悲とか、慈愛は捨身の愛と云われていますが、捨身は無条件だと思います。私たちの愛には条件が付いているのと違いますか。私の意に添うのか、添わないのかが分岐点となって、相手に執着する形を以て自分に執着をしているのでしょうね。「自分の意」はマナーですが、自分の意を以て取捨選択を繰返しているのが現実の相なのでしょう。
 阿頼耶に触れて、阿頼耶に執着をしている、阿頼耶が無ければ、執着すべきものが無いのですから、愛も生まれないのですね。愛するということが起こってこないのです。ですから、愛することは大変重要な出来事なんですね。
 そして、聞法も阿頼耶に触れているんですね。触れているから、自分の都合で聴いてしまうわけです。肝心なことは聞かないで、面白いところだけを聴くということが起こってきます。聞法はどちらからかと云うと、自分にとって都合の悪いところを聞くわけですから眠くなるんです。自分にとって都合のいい話を聞きますと、「そう通りや」と目が輝きますわ。それは何故、このようなことが起こってくるのかです。ここを聞かなければならんのでしょう。
 
 「有情執して自の内我と為す。乃し未だ断ぜざるに至るまで恒に愛着を生ずるが故に、阿頼耶識是れ真の愛着処なり。」(『論』第三・二十三右)
 有情の執着する心が、無我を生かされている身を、末那識が本来の自己である阿頼耶識を対象として阿頼耶識を縛って内的な自己として、自分だと、自分が生きているんだと思い込んでいるわけです。
 「阿頼耶識は無始の時より来た一類に相続して常一に似るが故に有情は彼を執して自の内我と為す」と説かれています。
 内我は法我と他我(固定的・実体的に存在するものではありません)に簡んでいます。何故かと云いますと、内我も縁起されたもので、法が存在して執をおこす、他者が存在して執を起こすのではないのです。縁起を固定化させたところから起こってくる実体の無い我ですね。いえば、実体の無い我に執着をしているということになりますね。
 こういう状態が金剛心(金剛喩定)という仏陀になるまで、恒に行じて休息することが無いと云われています。無始よりこのかた、未来永劫まで末那識は阿頼耶識を依り所として執着していくのである、と。
 宗祖が、信心の行者は便同弥勒と云われましたお心は、本願に乗託することに於て我執を超えていくことができるのであると、教えてくださっているのではと思っています。
 そこで観えてくる心は、我執でしかない身であったいう慚愧心なのでしょう。ここで、影像を見ていた我が、本質の我に触れ得ることが出来るんだろうと思いますね。