唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (49)

2017-04-02 12:41:26 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第八識の存在論証を上来は、『大乗阿毘達磨経』の頌を二句、『解深密経』・『楞伽経』を引用して説いてきましたが、これらの経典は大乗経典を引用しての論証であったわけです。そのことを、
 「此れ等の無量の大乗経の中に皆別に此の第八識ありと説けり」(『論』第三・二十左)
 と述べられていました。
 此れからは、大乗非仏説論に対して、大乗は仏説であることを論証していきます。
 「下は外人経を以て定量ならずとす。至経と為すことを許さざるが故に。」(『述記』)
 至経とは、釈尊によって説かれた教えですが、ここでは至経量と、大乗の経典は釈尊が説かれた教えの判断根拠にはならないと批判しているのです。
 そしてですね、
 「自下は初に比量(推量、推し量るという推測のことで、現に認識されるものを通して認識されないものを推し量るという論理的思考)を以て大乗は是れ仏語なりということを成ず。」(『述記』)
 そして『荘厳論』を引用して大乗は仏語であることを論証します。
 
 「諸の大乗経は皆無我に順じ数々趣(ソクシュシュ)に違せり。流転を棄背(キハイ・そむく)し還滅に趣向せり。仏・法・僧を讃し諸の外道を毀(ソシ)る。蘊等の法を表し勝性(ショウショウ)等と遮す。
 勝性とは、勝論が説くプラクリテーという実体的に存在的に存在する物質的な原理をいう。
 大乗を楽(ネガ)う者の能くむ顚倒(テンドウ)の理を顕示する契経に摂められると許すが故に。増壱(ゾウイツ)等の如く至教量に摂むべし。」(『論』第三・二十左)

 ここは何を言おうとしているのかです。私たちは大乗仏教を学んでいますから、余り問題にならないのですが、仏滅後仏教徒は戒を重んじました。『俱舎論』を拝読いたしますと戒・律・論の三学が如何に厳しいものであったのかが伺えますが、出家の仏教だったんですね。いえば、庶民にとっては関係のないところで仏教が学ばれ、修行がされていたことになります。
 ここに仏教徒から、一つの批判がでてきました。それは、出家仏教が果たしてお釈迦様の真意に叶っているのであろうか、ということなのです。お釈迦様の教団には、比丘・比丘尼・優婆夷・優婆塞という出家も在家の求道者もおられのです。初期の経団には、男女の差別も無く、出家・在家の差別も無く、道を求める純粋なものであったのですね。こういう反省が仏滅後500年位経ってから、大乗仏教興起の兆しが起こってきます。そこで初期の大乗経典が造られるのですが、お釈迦様の真意を伝えるものとしての経典です。この時代は、部派仏教の修行者と大乗仏教の修行者が混在した時代なんですね。部派仏教からしますと、大乗仏教に貶められてというでしょうね。部派の仏教は小さな乗り物と誰が決めたのだ、ということです。
 大乗側からすれば、貶するには貶する理由を立てなければなりません。
 其の理由が上の文章で示されます。
 五つの理由にわけられます。
 (1) 「皆無我に順じ数々趣に違せり。」
 (2) 「流転を棄背(キハイ・そむく)し還滅に趣向せり。」
 (3) 「仏・法・僧を讃し、」
 (4) 「蘊等の法を表し勝性(ショウショウ)等と遮す。」
 (5) 「大乗を楽(ネガ)う者の能く無顚倒(テンドウ)の理を顕示する契経に摂められると許すが故に。」
 大乗仏教は無我を説きます。古くは阿含でも説かれていますが、仏陀の教説は、我を認め、輪廻する主体があることを認めません。これが第一の理由です。無我を説いている大乗仏教は仏説であるということですね。
 私たちは、迷いだとか覚りだとか天秤にかけて物を言いますが、もともとは滅が居場所なんでしょう。居場所から離れて迷っているのを、元の居場所に還っていく道を明らかにしている。道理ですね。道理にはずれると、道理として迷うのです。
 「篤く三宝を敬え」とは聖徳太子のお言葉ですが、お釈迦様の教団はサンガ(僧伽)です。仏・法・僧の三つの宝が和合して修行がされていたのですね。大乗仏教も三宝を敬い帰依し、そして外道の説を毀している。
 五蘊・十二処・十八界は『倶舎論』のなかでも説かれていますが、もとは阿含経典ですね。お釈迦様のお言葉を集めたものですが、、この五蘊の教えも大乗仏教は説いている。
 「顚倒の善果能く梵行を壊す」と云われていますが、お釈迦様の説法は、無顚倒の理を明らかにされたのですね。それは増壱阿含経のなかでも説かれているように、無顚倒を説く大乗仏教は仏説である根拠になるというものです。
 お釈迦様の真意であることは、
 大乗仏教は無我の教え、
 迷いから悟りへという還滅の教えである。
 三宝を讃え、生きる所依を明らかにしている。
 そのことの全体が、お釈迦様の教えを依り所にしていく。量ははかると云う意味ですが、判断の基準です。お釈迦様の教えを判断の基準としている。これが至教量です。
 ここで三量が問題になるわけですが、以前にも簡単に学ばせていただきました。明日はもう少し丁寧に読めたらと思っています。