七種の内の三番目です。
「三には余境に非ざるが故にと云う。大乗の所説は、広大甚深にして外道等の思量の境界に非ず。彼の経論の中に曾って未だ説かざる所なり。設い彼の為に説くとも亦信受せざらん。故に大乗経は非仏の説に非ず。」(『論』第三・二十一右)
三番目の理由は、「非余境」である、と。大乗の教えは、外道や小乗とは違うと述べています。大乗の所説は、広大甚深、非常に勝れていて深いものであって、外道や小乗などの思量の及ぶところではない。また、小乗の経典や論書の中にも説かれてはいなしし、外道の論書にも説かれてはいないのである。もし広大甚深の教えが説かれていたとしても、彼らは信受しないであろう。ここを以て、広大甚深の教えを説く大乗経は仏説なのである。
次は第四番目です。
「応極成」(共通の理解が得られる)と言っています。
「四には極成すべきが故にと云う。若し謂わまく大乗は是れ余の仏の説なり今の仏の語には非ずといわば、則ち大乗経は是れ仏の所説なりということ、其の理極成しぬ。」(『論』第三・二十一右)
問を想定して答えています。
もし、大乗は迦葉等の余仏の言葉であって、お釈迦様の言葉でないとするならば、それは極成(一般に認められていること)して大乗は仏説であるということである。
確かに、この七種の論理には無理なところがありますが、一応は論の中で説かれていることですので、読んでおきます。
ここもですね、揚げ足取りのような形なのですが、仏説ではないとしながら、余仏の説であると認めているのであるならば、それは仏説であろういうことなんですね。
五番目の理由です。
有・無有(大乗の教えが有・大乗の教えが無有であっても、大乗は仏説である)
「五には有と無有との故にと云う。若し大乗有らば即ち応に此の大乗教は是れ仏の所説ぞということを信ずべし。此れに離れては大乗というもの得可からざるが故に。」(『論』第三・二十一左)
この科段は『荘厳論』を引いて開合しています。
「『荘厳論』の第五の体と第六の非体との二を合して一とす。彼しこ(『荘厳論』第一)に言く、有体とは、若し汝余仏は大乗の智の体有れども此の仏は大乗の智の体無しと言はば、亦已に我が義を成じぬ。大乗は異なること無し。体是れ一なるが故なり。非体とは、若し汝此の仏には大乗の体無しと云はば、即ち声聞乗も亦体無かるべし。若し声聞乗は是れ仏語成るを以て体有り、大乗は然らざるを以て仏乗無しと言はば、仏世に出でて声聞乗を説くこと有らば大なる過有るが故にといえり。」(述記』第四本・三十二右)
面白い論証の仕方ですね。「有」というのは大乗の教えが有るというものです。当然仏説になります。「無有」の場合ですが、大乗の教えが無いとするならば、小乗の教えもない事になる。ここは声聞乗が説かれていることが論拠になります。二乗の教えは当然仏乗が想定されます。仏乗が説かれて初めて二乗の教えが生きるわけですね。声聞乗が仏語で大乗は非仏語であるというのには過失がある。大乗を離れて佛に成る教えはないときうことになります。 (つづく)