桑名の仏乗寺さんで「解深密経に学ぶ」を講義していただいています高柳先生の講義録を読み直しておりまして、その第七回にお話しくださいました巻頭言ですが、大変大事なことを教えておられますので紹介したいと思います。熟読ください。
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「この会の名称は「預流の会」という事でありますが、会が発足するご縁という事につきましては、生前に岐阜の高山と富山の方で安田先生が『解深密経』の講義をされておられました。そちらから講義録が出されていまして、これを一緒に読みたいという事が直接の機縁でありました。私自身は高山での会ですね、実は一度も伺ってなかったという事がありまして、前々から、是非学びたいという思いがあった訳です。
確認をしておきたいのはですね、ある意味では歴史的必然性がありまして、大乗仏教が興って来た時にですね、これは大乗という優れた仏教が興って来たというのではなくて、人類史的に言えば、仏陀、釈尊、ゴータマシッダルダという一人の人間が求道心において生きざるを得なくなったと。その歩みをくぐって目覚めを得られた訳ですけれど、それは一個人の天才がですね、悟りを得たという事ではなくて、存在している事がすでに苦であると。この事はあらゆる衆生に共通してある根本的な問題な訳です。そしてその事に真向わずにおれなくなったという一人の代表者である訳なんですね。決して私たちと無関係な存在ではない。
そしてその釈尊が頷かれたものを、後に小乗といわれる方たちも、何とか追体験しようと真面目に道を求められた訳です。しかしそれがやがて隘路に陥ってですね、解けなくなった時に、初めて言葉とすると利他という言い方になりますけど、これは人を助けるという意味ではなくて、自分の中に閉じてしまうという問題が明確に意識されたんでしょうね。その時にその閉じて行くという方向を破る、という意味で利他という表現になったのであって、単に人を助けるというのが大乗だというのではない訳です。
その自分に閉じるという問題、その自というものを破るという意味でそこに般若の思想が現れて、自というものは無いと。無我という事を強調して空という事がいわれた訳です。
ところが今度はその空に沈む、執われるという事が起こってきてですね、そこから必然的に、現に私たちは意識を持って物事を見て、そしてそれに執われていると。そういう私たち自身の精神をですね、ある意味では真正面から受け止めて、その迷いという事がどこで成り立つのかという追求がなされてきたわけです。
最初にも申し上げましたが、私自身唯識を専門に勉強した訳ではありません。ただ私自身、一体自分はどこから生まれて来たのか、どうして自分は苦しいのかということが十代の始めに自分の中にどうにも成らないほどの大きさをもってしまいまして、それが実は私自身の一番の出発点でもあった訳なんですね。皆さん、生きているという事を前提にして物事を考えて、今苦しいから、この苦しみから解かれたいと思われるかも知れませんが、本当に、今、一体なぜここにいるのかという事は、これは楽になりたいというようなことよりも、潜在的な深い問いであるんですね。
その事と、今回付けて戴いた「預流の会」という名の「流れ」という事とは非常に深い関係にありまして、その迷いの存在として生まれてきた、衆生として存在している。そして一体その迷いの存在はどこから必然したのか、言い方を変えれば、どこから流れ着いたのかということですね。そしてその流れそのものは、個人のながれではなく、衆生そのものの流れであり、その流れの体が阿頼耶と言われるわけです。その根本の流れにおいて迷っていることに目覚めるということが、流れそのものになるということ、流れに預かるということなのですね。そういう意味で、この「預流の会」という名称は福井にもあるそうですが、それはかまわないというか、むしろ同じ名前が浮かんできたということは、正に預流という意味の必然であると思うのです。
この預流という事は、小乗の悟りの段階的なとらえ方としてもあります。預流・一来・不還・阿羅漢というとらえ方もあるんですが、このように段階論的なとらえ方としてですね。四向四果という段階で、まず流れに預かるところからですね、煩悩を断じた阿羅漢という位までの段階ですが、今回の会の名称としては直接この場合の預流を指すものではありません。
そこにやはり、小乗であっても預流という言葉が顕れたという事は、これは大きな意味を持つものであると思うんですね。私たちがどこから来てどこに行くのかと。私が迷っている、その迷いの根底は一体何であるのかと。そういう意味においてですね、ただ個人のしての迷い、個人という存在としての迷いではなくてですね、根底的な存在の根拠という意味で「流れ」という事をいっているんですね。そしてその預流という、流れに預かるという事は、実は衆生の世界に入る、そういう意味がある訳です。
たまたまですが、福井の方からも「預流」という会報が出ているそうで、同じ名称の会がすでにあって重なる事になるそうですが、そちらの会も唯識の学びをしている、安田先生のご縁の会なんだそうです。そういう事もですね、逆に考えますとね、この名前はこの会の所有物ということではなくてですね、むしろ、流れに預かって行くということがこういう名前を必然したんだ、流れの中に見出されたのだと。だからこの名前が重なっているとしてもですね、、むしろ意味深いことだなあと思った事でした。
この会が単に個人の興味で、というのではなくてですね、普遍的な流れに預かって行くという、公(おおやけ)性を持ってですね、なされて行くという事の重要性を、実は最初から感じていましたので、一年を経過してですね、今回、このように名前を戴けたというのは、本当に有難い事だといただいている次第です。」
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今日は、化地部の説から、第八識が存在することを論証します。
「化地部此れを説いて窮生死蘊(グショウジウン)と名く。第八識に離れては別の蘊法(ウンホウ)の生死の際を窮めて間断する時無しと云うものは無し。謂く無色界には諸色間断し、無想天等には余の心等を滅す。不相応行は、色・心等に離れて別の自体無しと已に極成せるが故に、唯此の識のみを窮生死蘊と名く。」(『論』第三・二十二左)
化地部(けじぶ、梵: Mahīśāsaka, マヒーシャーサカ)とは、仏教の上座部の一派で、『述記』には「人中の國主にして地を化し人を理む。位を捨て家を出て部主と為るに因って化地部と名づくるなり。」と説明しています。「窮生死蘊」は生死輪廻が尽きるまでなくなることなく相続する身心のことを云っていますが、これは化地部の説で、大乗は「「化地部中、異門の密意を以て阿頼耶識を説いて窮生死蘊と名く」と、阿頼耶識の異名を説いたものであると云います。
「無色界には色無し、無想天等には心無し、不相応行は体無きを以て(不相応行は仮立法)余をば窮生死蘊と名づく可からず、第八識のみ然る可し、諸位に皆有るが故に。」(『述記』第四・二十七右)
間断することなく相続し、諸位に存在するものを窮生死蘊というけれども、それは第八識のことである。第八識以外の識には間断があるではないか、と。三界を以て説明しています。つめい、無色界には身体が無い世界ですから、生死を窮めるということがありません。
「無想天等」は色界の話です、身も心の有る世界ですが、色界第四禅天には六識が滅した世界、心が滅した世界なんですね。身はあるけれども、心が動かない、働かないところなんです。自分の欲というか、自分にこだわっている分別が消え去った状態なんでしょうね。「無想定を修して無想天に生まれると、滅尽定」です。滅尽定になりますと、末那識まで無くなると云われています。不相応行は仮立されたものですから諸識の体と為ることは有りません。
最後は説一切有部の説くところから第八識の存在論証がなされます。