唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (50)

2017-04-03 23:16:49 | 阿頼耶識の存在論証
 桜の開花も寒さが影響して遅れていましたが、四月に入ってからの陽気で一気に開花しました。そしてもうすぐ灌仏会、お釈迦様のお誕生日です。 
 今日は、「量」についてですね。
 四分義のところでは、一つの認識が成り立つ為の要素として量が用いられていました。所量・能量・量果ですね。
 本科段での「量」は、至教量(シキョウリョウ)に摂めると云われています。現代の言葉でいえば、判断基準になる単位を量という、こういうことでしょうかね。仏陀の教えをもって判断の基準とする、これが大事なところです。『浄土論』に三依釈が説かれます。
 「我依修多羅真実功徳相説願偈総持與仏教相応」(我修多羅真実功徳相に依て願偈を説いて総持して仏教と相応す)
 曇鸞大師は「依」について質問を投げられたのです。成上起下の偈義と云われています。『論註』の釈は「上の三門を成じて下の二門を起す」(礼拝・讃嘆・作願を成じて観察・回向を起こす)「依」は仏語に依るということなですね。仏語は発遣の教主であるお釈迦様の真意になるわけです。そこに招喚の弥陀との呼応関係が成立するのでしょう。
 曇鸞大師は「依」を大切になさいました。
 何所依 - 修多羅に依る。
 何故依 - (如来は)真実功徳の相成るを以ての故に。
 云何依 - 五念門を修して相応するが故に。
 最初の修多羅なのですが、「三蔵の外の大乗の諸経を亦た修多羅と名く」とあります。
 そして、国土荘厳が展開されるのです。十七の荘厳功徳が説かれますが、『摂論』の十八円浄にその元はあるわけです。国土は衆生に受用される器ですので、依報(環境)といわれています。そして異熟果としての衆生世間を正報といいす。
 日蓮は『一生成仏鈔』の中で「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。」と教えてくださっていますが、所依が大事になってくるのですね。修多羅に依る、そして仏教と相応するのだと。
 本科段では至教量と教えておられるわけです。聖教量という言い方もあります。
 知るということが量なのです。私たちは物事を知る時には三量という判断の基準をもって知りえる、認識しているのですね。認識の主体は見分なのですが、見分は三量を持っていることになります。つまり、現量(ゲンリョウ)なのか、比量(ヒリョウ)なのか、非量(ヒイリョウなのかです。
 現量とは、現は、ありのまま、離言の理になります。言葉を離れた、言葉を用いずに、ものそのものを間違いなく捉えて認識することで空の世界でしょうかね。前五識と第八識は現量であるのです。「迷乱の義無きが故に」(『雑集論』)と云われています。
 比量は、比較の上に成り立った認識のあり方と云って云いのでしょうか。聞法も比量でしょうね。離言ではありませんで、言葉を用いた論理的思考になりますね。聞法ですが、聞くということは現量なのでしょう。現量の上で推量するわけです。譬として「遠くに烟を見て彼に火ありと知るが如く、現量を先と為して比量す」といわれています。
 非量は、間違った認識のあり方です。我愛現行執蔵位は非量ですね。正しくない現量(似現量)、正しくない比量(似比量)をいいます。第七末那識がこれにあたります。
 ですから、私たちがものを知っていくのは現量と比量に依るわけです。非量は間違い、迷いですが、現量に迷い、比量に迷っていることになり、迷いそのものは無いということでしょう。本来迷いは成り立たないのですね。