唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (37) 法性の常楽と極楽

2011-06-12 16:34:07 | インポート

     『唯信鈔文意』に聞く (37)

            蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』 より

 しかし、それは如来の智慧であって、我々からいえば、生死はどこまでも生死。煩悩はどこまでも煩悩。そこが違うわけです。真如のことを実相と名前をつけるのはそういう意味であります。

 「無為法身」というのは、法身は先程もありましたように如来のさとりを名づけるのであります。

 「無為」ともうしますのは、有為という言葉に対しての無為であります。この無為という意味は、動作を離れた意味であります。つまり、言葉自体が為すことなしであります。妄念をもってなされるのが我々の世界でありますから、妄念がなくなって、妄念が働くということが少しもない、それを無為ともうします。で、いうてみますと、煩悩がいささかも働かない。そういう意味です。そういう意味で無為というのを解釈した方が一番適当でないかと思います。それで、次に、

  「滅度にいたるともいう。」

 ともうします。煩悩がなくなった状態が滅です。「滅」ともうしますと、煩悩が滅するという意味ですから、煩悩が滅するということがすなわち生死の流れを渡るということでありますから、「滅度にいたるともいう」と。

  「法性の常楽を証すともいう。」

 法性の常楽は先程もうします「法性のみやこ」という意味であります。「みやこ」ともうしますのは、たのしみがつねである。そのたのしみはさとりのたのしみです。あるいは無限のたのしみがある。「みやこ」には無限のたのしみがあるということです。なぜかというと、「みやこ」へいきさえすれば欲しいものが得られる。見たいものが見られる。ないものがない。それで田舎からみな「みやこ」へ行きたがります。「みやこ」へ行きさえすれば、田舎におってはお金に不自由するけれども、「みやこ」ではお金でも、たやすくもうけられると思うてみな、「みやこ」へ行きます。いってみると、あまりもうからんのですね。娑婆ですから、しかたないです。ところが、それは認識が浅いからです。

 「みやこ」というところは、来るものに対して楽しみを与えるわけです。「みやこ」というのはどういうところか。なんでもあるところだというが、なんでもなぜあるのかと。たんと人間がおる。その人たちを楽しますようなことを誰が道楽でしておるのかというと、休みの日も休まないで働いている人間がおる。日曜なんかの休みの日にもお客さんが来るだろうと、そのために工夫して、ご馳走も人一倍用意して待っておるんです。だから楽しいんです。そこに行くとですね。「みやこ」へ行ってたくさんな人間を遊ばせ、楽しませるために行くんだという人がおるならば結構なのです。ところが、行って、遊ばしてもらって、楽しませてもらいたいと思っていく者ばかりですから、混雑するばかりですね。

 そういう意味で「みやこ」ということから「常楽」というのが出てくる。そこから「法性の常楽」とはどんなところかというと、ただ働くところなんです。娑婆の「みやこ」と違います。極楽のみやこは、そこへ往生してくる餓鬼亡者に対してただ働きをする楽しみが無限である、と。こういう意味なんです。来るもの来るものを無限に遊ばしてやる。それで少しも疲れるどころか、この上ない楽しみである。極楽というところは、そこへ行ってただ働くことを楽しみに行くところであると、こういうふうに説明するとわかると思います。極楽がどんなに楽しいところか分かると思うんですd。そんなことをして楽しみはないではないかというけれど、それが楽しみになる世界なんだということです。人に食わすと、こちらの腹がふくれる。人が踊ってうれしくなれば、踊っている人よりもこちらのほうが楽しいんだと、こういうのが「法性の常楽」ということである。何も遠い世界をいわんでも、街の雑沓を見ながら、裏側を説明すれば分かるんですよ。

 ですから、法性の常楽、そこには智慧がいる。仏陀の智慧というものがいるわけです。法性の常楽をさとるという。証する、さとるということです。  (つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿