唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (14)

2012-07-28 22:18:13 | 心の構造について

「論。雖六識身至無相濫過 述曰。若如所問六皆依意。然唯第六獨依第七不共意根餘五即無。今依不共以立其名獨名意識。如五識身亦依於意。依不共根以得稱故。彼名眼識不名意識。此亦如是。五義具故 問如前説依五・八依七。何故第六稱不共依 答若染淨依・及倶有依。七望五・八倶是所依。然近順生不共識者。即唯第六。今言不共意顯近而順生。以六種子必隨七故。餘五等不然。故此得名無相濫失。此爲一解。」(『述記』第五末・四十七左。大正43・416b)

 (「述して曰く。若し問うところの如くんば六皆意に依る。然るに唯だ第六のみ独り第七の不共の意根に依って、余の五には即ち無し。今は不共に依って其の名を立てたるを以て独り意識と名づく。五識身も亦意に依る。不共の根に依って称を得たるを以ての故に。彼を眼識と名づけて意識と名づけざるが如し。此(第六識)も亦是の如し、五義具するが故に。

 問、前に依を説くが如し。五・八も七に依る。何が故に第六のみに於て不共の依と称す。

 答、若し(五の)染浄依及び(八の)倶有依たるをば、七を五・八に望めても倶に是れ所依なり。然るに近順生の不共の識は、即ち唯だ第六にのみあり。今不共と言うは意近くして順じて生ずということを顕す。六の種子は必ず七に随せるを以ての故に。余の五等は然らず。故に此れ名を得ること相い濫ずる失無し。此れを第一解と為す。」

 問いに言われているように、染浄依及び倶有依という点からは、第六意識だけではなく、前五識も、第八阿頼耶識も、また意識といえるのではないかという疑問は、染浄依と倶有依という点からはその通りである。末那識は前五識に対しては染浄依であり、第八阿頼耶識に対しては倶有依となる、このことは『述記』第四末に述べた通りである、と。しかし、「近順生」という点からは、ただ第六識しかないからであると説いています。この点については『了義燈』(第五末・十八左)に説明が加えられています。

「釋意識得名。問五・八皆依七。何故六稱不共依。獨得名意識非五・八耶。答若染淨依及倶有依。七望五・八倶是所依。然近順生不共依者。即唯第六。今言不共意。顯近而順生。何者以六種子必隨七種。七種生現意識隨生。如眼識種依眼根種。此亦如是。五・八不説依第七種。故此得名無相濫失。」(『了義燈』(第五末・十八左)。大正43.749b)

 「意識の得名を釈するに於て、

 問、五・八も皆七に依る。何が故に六のみを不共依と称す。独り意識と名くることを得て、五・八には非ざるや。

 答、若し染浄依及び倶有依ならば、七は五・八に望めて倶に是れ所依なれども、然も近く順じて生ずる不共依ならば、即ち唯だ第六のみなり。今不共の意と言うは近じて順生するを現わす。何んとならば、六の種子は必ず七の種に随せり、七の種の現を生ずるときに意識随って生ずるを以てなり。眼識の種の眼根の種に依るが如く、此も亦是の如し。五も八も第七の種に依ると説かず。故に此の得名において相い濫ずる失無し」と。

 第六意識の種子は、必ず第七末那識の種子に随い、第七末那識の種子が現行する時は、これに随って第六意識も生ずるからである。これは眼識の種子が五根の種子に依るのと同様である。このように前五識も第八阿頼耶識も第七末那識に依るとは説かない。意識が第七末那識を所依としていることを不共依といい得るという、と説明しています。

 


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