「理いい実と云うは、無瞋は実に自体有り、不害は彼の一分に依って仮立せり。慈と悲との二の相の別(コトナル)ことを顕さんが為の故に。有情を利楽するに彼(無瞋・不害)の二いい勝れたるが故なり。」(『論』第六・七左)
ここに、有情という迷妄存在の救済は、抜苦与楽であることを明らかにし、抜苦は無瞋に於て、与楽は不害に於ての勝果であることを説いているわけですが、問題は無瞋・不害はどうして成立するのかということです。このことを抜いてしまいますと、教理的な学説、机上の空論に陥ってしまいます。
理は理論・実は実際的な視点ということ。理実を以て無瞋と不害が別々の心所として立てなければならない理由を述べています。
無瞋 - 自体有り(無瞋は種子から生じた実法であるということ)。
不害 - 無瞋の一分(無瞋の作用の一部)に依って仮立されたもの。これは、無瞋の働きの一部である抜苦を不害という一つの心所として仮立した心所であるということを述べています。
では何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのかということですが、これが本科段の主題となるところです。
「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
「論。理實無瞋至彼二勝故 述曰。理實無瞋體是實有。不害依無瞋一分拔苦之義勝故。假立不害 問前大悲以無瞋癡二法爲體。今何故獨言不害 彼據實體。此約假成。又彼是大悲。此但是悲。四無量攝 問何不於無貪等上建立 答爲顯功徳中慈悲二相別。故依無瞋假立。不依無貪等 問諸功徳等。如勝處等亦以無貪爲性。何以善中。不依無貪之上。爲顯功徳別故。別立一假法也 答一切功徳依聖人勝。於聖人身佛爲最勝。佛身之中利樂有情勝。利樂之中慈・悲二種最勝。爲顯極勝功徳別故。依無瞋立不害。非無貪等 顯揚第二云喜是不嫉。何故立不爲善根 答拔苦悲勝。別立不害。喜不勝悲。不立不嫉」(『述記』第六本・二十八右。大正43・439b) (つづく)
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