唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 標名門 (5)

2011-01-07 22:47:04 | 第二能変 標名門

Image191   本願寺聖人伝絵下末 第四段 箱根霊告

 親鸞聖人が箱根権現の翁の饗応(きょうおう)を受けられるところが描かれています。

 「聖人、東関の堺を出でて、花城の路におもむきましましけり。或日晩陰におよんで箱根の険阻にかかりつつ、遥に、行客の蹤を送りて、・・・」(真聖p734)

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    第二能変 標名門 (5) 意と意識の相違

  第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由

 三釈あり。

  1. 第一の釈は 「然も諸の聖教には、此れが彼に濫ぜんかと恐るるが故に、第七の於には但意という名のみを立てたり。」(『論』第四・十二左)

   (第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由について、『述記』に問いが設定されています。護法の答えにたいして、護法が問いを立て、答えているのです。

 「問う、今は名を得ること既に各不同なり、何が故に六と七と並に意識とは名づけずして、而も第七の於には但意という名のみを立てるや。若し意識と名づけば是れ持業をもって名を得と顕はしつ。但名づけて意と為ること竟に何の理有るや。」 と記されています。 即ち、第七識も第六識も意識と名づけてもよいはずなのに、第六識を意識と名づけ、第七識を意という名のみを立てるのか、それにはどのような道理があるのか、という問いですね。)

 第一の釈の説明は、第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。

 『樞要』二「第七は持業、・・・第六は依主・・・若し第六に一の意を標して識と言はざれば、自を顕すあたわず。第七に識を加えば、依主に濫ぜんかと恐る。故に第七には但意の名を標す。・・・第六に識を加えることは他に依るが故に名を得るを顕すが故に。」と述べられています。

         次は第ニの釈です。明日書き込みます。


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