唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論』 四月度講義概要 (1)三性分別門 (1)

2016-04-17 20:23:07 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 過去ログより少し整理をしまして予習とさせていただきます。四月度の講義は10日の正厳寺様にひきつづきまして、20日の水曜日午後3時より、八尾市本町の聞成坊様で開講となります。
 「阿頼耶識をば何の法にか摂むるや」に入る前に、法の四種である、善と不善と有覆無記と無覆無記について,
最初の問いは「法に四種有り。何れの法にか摂せらる。大乗にも亦自性善等有りと云う。」(『述記』)
 善に四種あるということですが、それは自性善と相応善と等起善と勝義善であり、自性善とは、それそのものが善であるというものです。第十一頌に挙げられています善の心所の十一をいいます。相応善は、自性善と倶に働くこころで、等起善は自性善と相応善とから付随して引き起こされる善い身業と語業と不相応行をいい、発起善ともいいます、勝義善は、真如のことで、第一義善であり、善無為の法になります。
 最初の三は有為の善法で、世俗善です。「世と出世との可愛(カアイ。好ましいこと。)の果を招くが故に、麁重なり生滅あり、安穏に非ざるが故に。」有為の善法は、「唯だ善の心と倶なるを善の心所と名づく。謂く信と慚との等とき定めて十一有り。」(『論』第六・初右)と説明され、善の心所には何があるのかを述べています。十一ある、と。内容は、
「信・慚・愧(き)・無貪・無瞋・無癡・勤(精進)・安(軽安)・不放逸・行捨・不害」の十一です。
 無貪・無瞋・無癡を三善根といい、それに反して、貪・瞋・癡を三不善根、或は三毒の根本煩悩といわれている。善の心所が立てられるのは、その正反対の心所(煩悩・随煩悩)を対治するためであるわけです。
 不善は、「諸の極悪の法」であり、「世俗不善と名づく、能く麁顕(ソケン。はっきりと認識されたあり方。)の非愛の果を招くが故に。諸の有漏法をば勝義不善と名づく。自性は麁重(ソジュウ。身心の重々しい状態。)にして安穏ならざるが故に。」
 有為の善法は、いつでも不善に変わる要素を持ったものであり、有漏なんですね。例えば善の心所の中で「信」が最初に挙げられます。「仏法の大海には信を以て能入と為す」という「華厳経」の教えもあって、非常に大事なことではありますが、「信」は何処で成り立つのかですね。自分が信ずるという時には、必ず功利心が働いてきます。そこで他を裁きます。自力の執心と教えられますが、怯えがあるのですね。自分が壊れる怖れです。怖れが自分の中にあるから他を裁くのです。そこでは「信」は成り立ちません。いつでも自分の評価を気にして一喜一憂しているのが私の姿です。仏教は、そのような立ち位置では駄目だと、財や健康や名誉を当てにしていては苦の因を解くことは出来ないんだと。断ち切らなければならないというわけですが、ここに自分の深い執着心が解けない、見えないという暗さがあると思うのです。
 自力の執心に立たないという、非常に厳しい事なんですが、それを他力というのだと思うのです。すべての因は自分にあったという気づきですね。そして一切は御縁の世界に生かされている身であるという頷きでもあるのでしょう。そこに安穏という、安らかで穏やかな心がもたされてくる、そのように教えられているんだと思います。
 善・悪・無記についてですが、第八識は善・悪について色付けをしない無記性のものであり、第七識は唯だ悪(不善)であるけれども無記性である。そして表に現れている六識に心所のすべてが相応している。善の心所も悪の心所も、不定の心所もすべて六識と相応して現行してくるわけです。いずれにしても、深層で動いている心は無記性であるというところに大きな意味があります。それは私の思いを超えているということなんですね。
 私は、私の思いを超えている現実に、自分の思いを重ねて執らわれて自他分別を起こしています。これは悲しいことですが、いかんともしがたいことです。でも、ここに悲しみをもつということが大切なことなんですね。悲しみが自分の思いを破ってくれるんです。
 「有為の無記法をば世俗無記と名づく、愛・非愛の果を招くこと能わざるが故に、自性麁重にして不善に濫ずるが故に。虚空と非擇滅(ヒチャクメツ)とをば勝義無記と名づく。二果(当来の愛・非愛の二果)を招かず、不善に濫ずる所無きが故に。・・・」(『述起』第三末・二十九右)
 そして、阿頼耶識は無覆無記であると明らかにしてきます。
 「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 異熟といっています、つまり、過去を背負った自分であるけれども、その過去に左右されない自分を生かされているんだということなんですね。阿頼耶識は無記だということはそういう意味なんです。善でもなければ、悪でもない。無記としてのいのちを賜っている。それを私有化しますから苦悩が生じてくるのですね。いのちは。苦でもなければ、楽でもなく、善でもなければ悪でもない、純粋無記の性格をもったものなんですね。確かに、過去の行為を引きずって今の私が存在するわけですが、今の私が未来に引きずることは無いのです。現状の生活の営みは変わることは無いでしょうが、私でいえば、過去の悪行を清算してというわけにはいきません。悪業を引きずった私が存在しています。後悔もし、なんであんなことをしでかしたのかと悔やむわけですが、もとに帰ることはできません。為した行為は否応なしに引き受けているわけです。それが自分を縛っていることに間違いは有りません。しかし、その悪行が悪行の価値観を変えることが出来ると教えているんです。それが無記性ということなんですね。「これでよかったんだ」と。ここに過去に対する慚愧心と、未来に対する方向性が定まるわけですね。
 「いのちに触れよ」我執の底からの叫び声です。阿頼耶識はいつでも、いかなる時でも、命に帰れと叫んでいます。無覆無記、救済の原理を明らかにしているのでしょう。
 阿頼耶識の受は捨であると明らかにしていましたが、今度は善悪について述べています。阿頼耶識は無記だと明らかにしています。善悪いずれでもない無色透明は性質をもっているのが阿頼耶識だと。
 第八阿頼耶識・異熟識の場合は、有漏で無覆無記の性質を持ったものである、ということです。「此の識は」とありますから、第八・阿頼耶識のことを問うているわけです。
 「因是善悪・果是無記」で、過去を背負って存在している自身は、異熟性であり、異熟の総報の果は無覆無記である。
 この理由が次で述べられます。(過去の業を背負うものが何故無記なのか?)この段は明日以降にしますが、私の意識の根柢でいのちを支えている阿頼耶識は無色透明であり、たとえ因が善であれ、悪であってもですね、果である自分自身の存在は無覆無記の存在であるということなのです。阿頼耶識には煩悩は相応しないのです。私たちは縁の催促によればいかなるようにも変化できることが可能であることを示しているわけです。「人間は楽を求めて、苦しんでいる存在である」とメッセージが届けられていましたが、無覆無記の存在に染汚生を植え付けて苦悩しているんですね。余計なことをしているんだな、と思います。
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に」。これは総答になりますが、別して無記の名を釈します。三つの理由を以て無覆無記であることの立証をしています。
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右)
 ここは異熟といいましても、阿頼耶識のことです。阿頼耶識が問われているところですので、有漏の場合は、ということになります。如来の第八識は無漏ですから唯だ善性になります。
 阿頼耶識が若し善であるか、染汚(不善・有覆無記)であるか、それがはっきりしていたらどうなるのか、という問いが先ず出されてきます。人間の本性が善か悪であるとしたらどうなるのかですね。
 答
 「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(流転も還滅も成り立たなくなる。)
 もし善性か悪性ならば必ず異熟ではなくなる。何故ならば、
 「『摂論』第三巻の末に自ら解せり。(人・天の)善趣の(第八識)は既に善ならば、(不善の熏を受けざるが故に、發業潤生の)不善を生ぜざるべし。(唯善の熏のみを受けて)恒に善を生ずるが故に。即ち(苦・集の)流転なかるべし。(
 煩悩業の)集に由るが故に生死に流れ、苦に由るが故に生死に(輪)転ず。悪趣(の第八識)も翻じて亦然なり。(唯だ悪の熏のみを受くるが故に)既に恒に悪を生ぜば、(善の熏を受けざるが故に、善を生ぜざるが故に、滅・道の)還滅なかるべし。道(諦)に由るが故に還ず。滅に由るがゆえに(業煩悩を)滅す。」(『述起』第三末・三十一右)
 この『述起』の釈がすべてを物語っています。
 『成唯識論抄講』で太田師は(心に響くように)、
 「阿頼耶識が若し善と染汚とならば、善であるか染汚であるか、もしそれがはっきりしていたら、人間の本性は善である、或は悪であるとしたならどうなるか。「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」流転は迷いです。もし人間が、基本的に善であるならば迷いはあり得ない。もしも人間の本性が善でありますならば、現実的に生死流転、迷っていくということはなくなってもいいはずですね。もし人間が染汚、汚れておりましたら還滅がなくなるんです。還滅は滅に還る、滅は涅槃ですから、心の安らぎの世界、静かな悟りの世界に還ってくる、流転は生死に迷う。現実の私達は生死に流転して迷っているか、悟りの方向に向かっているか、そういう二つの動きをしていくわけですが、その時にもしも私共が善であれば生死に迷うことはない。悪であれば修行をして悟りをひらくことはありえない、こういうことになりますね。ですから阿頼耶識は善でも悪でもないというんです。我々は現実に生死流転することもあるではないか、現実に悟りに近ずいていく、仏様にお会いして教えを聞くことができる、そういうことがあるじゃないか。ですから人間は真っ白なんです。無記なんです。無記だからある時はさまようんです。無記だからある時は悟るんです。それが理由です。」と語ってくださいます。
 流転は惑・業・苦の流転輪廻で、流転の因は惑から始まります。惑とは、我を認め執すること、我執です。この我執から煩悩・随煩悩が流れ出します。ここに自尊損他という自他分別が起こってきます。自分にとって、という枠で物事を取り決めていきますから、自分にとって利益になることは楽、その反対は苦ですが、楽といえども、いつでも苦に変わる性質のものですから、自分という枠の中では、苦・楽・捨はすべて苦なのです。
 つまり、道理に反すれば苦が必然なんですね。必然が「何故」というといを生み出し、道を求めるエネルギーになるわけです。このエネルギーは如来から頂いたものなんです。私が生み出すものは苦しかないわけですが、苦を縁として浄を欣うのは如来の働きなんですね。
 いうなれば、如来と衆生の分限が違うのですが、如来と衆生が出会えるのは無覆無記性においてなんです。現実の私の姿を見透かして、如来に出会えと催促されているように思えました。
 第二の理由が述べられます。
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、此の識は既に是れ果報の主として、善染法の所依止と為り、既に恒に是れ善ならば悪が依と為らざる応し。是れ悪ならば亦善が依と為らざるべし。互に相違せざるが故に。」(『論』第三・五右)
 第八阿頼耶識が無覆無記であるには三つの理由があることの第二の理由を示しています。此の識、第八阿頼耶識は七転識の所依である。第八阿頼耶識に依って前七識は善・悪・無記の所依止と為る。つめり、第八阿頼耶識を所依として善・悪・無記のいずれの心にも転じ得る。しかるに、若し所依の第八阿頼耶識が善または染であるならば、つまり、恒に善であるならば、悪の所依にはならないであろうし、もし悪ならば善の所依とはならないであろう。互いに相違し合って三性の識が生ずることができなくなる。
 私達のいのちの依り所は第八阿頼耶識なんですね。ここは非常にわかりにくいところだとはおもいますが、命の根底に在って命を支えているのが阿頼耶識なんです。ですから、阿頼耶識は能蔵・所蔵・執蔵という意義を持つものであると説かれているわけですね。そして三蔵を依り所をして現実の心は動いているわけです。迷うことも、菩提を求めることも、第八阿頼耶識が無覆無記であるから行い得ることができるわけです。もし、阿頼耶識が善なる性質であるならば、悪行をするはずはないのですね。深く言えば、業縁が成り立たないのです。悪を為すことはなく、迷うということもないわけです。
 面白ですね、私たちは苦悩のない世界を求めて彷徨っているわけです。苦悩があるから清らかなに禅定の世界を求めることが出来るのですね。
 阿頼耶識が善性でありましたら、迷うことがありませんから意味をなさないですね。その逆は、もし阿頼耶識が恒に不善であるとしまうすらば、菩提を求めるということが起こってこないのです。「人生楽あれば苦もあるさ」は無常を教えている。有為有漏の存在であるということを教えているわけです。私たちにとって無常は苦以外にないわけでしょう。その証拠に、いつでも若々しく、地位も財産も名誉も失うことなく、できれば死を迎えることなく生きていたいとの望んでいるのではないですか。ここが鍵になりますね。僕にとってはですよ。生きていることは、こうありたい、ああなりたいと思っているわけでしょう。これが菩提を求める印なんですね。いのちの根柢が無覆無記だから、迷うことも、目覚めることも出来るわけです。迷うことにおいて慚愧の心をいただき、目覚めることにおいても慚愧の心をいただくことができるのですね。
 反面、無覆無記だから、悪行に染まるということも起こってくるわけです。しかし、私たちのいのちの根源は無常であり、無我を生きているわけです。無常を知り、無我を生きよと教えているわけですね。二の重い障礙、菩提と涅槃を障えるのは煩悩障と所知障であると教えられていました。菩提と涅槃は善悪を超えた世界ですね。善悪はいつでも退転するかもしれない対立の世界の出来事です。
 なんかね、僕の立てる場所は、善悪を超えた彼岸の世界、そこが依り所だと。不可知の世界ではありますが、竊に推求すれば「ここに帰ってこい。ここが汝の居場所だ」と。浄土の世界からの呼び声が聞こえてくるような感じがします。
 善か悪か決定されていたら私の進むべき道は閉ざされてしまいますね。現実の諸問題から、第八阿頼耶識は無覆無記であると意味づけられているのでしょう。
 第三の理由が述べられます。(「第三因に云く」(『述記』)
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、前に已に説けるが如し。唯だ、無記性なるは熏習を受くべし。薩多婆等若し復難じて言はん。熏習の識無しと云はば、亦た何の過か有る。」(『述記』第三末・三十一左)
 「前に已に説けるが如し」、熏習について、所熏の四義・能熏の四義が説かれていました。熏習論につきましては、2014年4月23日~26日、所熏の四義(経験の蓄積される場所を明らかにする)につきましては、2014年4月28日~5月02日の投稿を参照してください。
 第八阿頼耶識は所熏処であることが既に考究されていましたように、第八阿頼耶識は現行識の熏習を受ける所熏の識なんです。現行の識が能熏になります。阿頼耶識に経験の種子を植え付ける働きをもつものです。そして植え付けられる場所が所熏処である阿頼耶識なんですね。阿頼耶識が善もしくは染であるならば、熏習を受けることは出来ないと言っているのです。熏習を受ける性質をもっていることが所熏性ということになります。
 喩が出されています。
 「極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」と。これは、阿頼耶識が善或は染という独自の性質を持ったものであれば熏習しないということを述べているわけですが、「極めて」とありますから、麝香とは沈香という、いいお香は心を浄化する働きをもっているわけです、そこに臭(悪臭)をもった臭いを染み込ませることは出来ないだろうと。つまり、心を浄化する働きを持っているお香に、心を散乱させる悪臭を熏ずる(染み込ませる)ことは出来ないんだと。また、悪臭に薫香することもできないであろうと、阿頼耶識が善という性質、或は、染(悪)という性質のものであれば、この喩と同様になり、熏習を受けることはない、と。阿頼耶識は善であれ、悪であれ、無記であれ、すべてを受け入れる所熏処でありますから、無記という性質を持ったものなんですね。
 私たちは、このような無記という性質の上に、善悪の種子を植え付けているのだと教えているわけです。
 「熏習無きが故に、染浄の因果倶に成立せず。」(『論』第三・五左)
 熏習することは無いと説いているわけですが、熏習がなかったなら因果は成立しないわけです。現行熏種子、現行が因、熏種子が果という因果関係が不成立になるわけです。私たちは無記性の上に善悪を植え付けていきますから、還滅が成り立っているのですね。菩提・涅槃と流転は果ですね。因である現行が問われてくるわけです。
 このような問いが出されてきた背景には、有部の教説があるのですね。有部は「所熏の識など無くてもいいではないか」という論難に対して、論主が答えるという形をもって対論されているのです。熏習がないと、染浄の因果が成立しなくなる。」と。
 「故に此は唯だ是れ無覆無記なり。」(『論』第三・五左)
 私達、人間の迷妄の事実から見つめられてきた問いだと思いますね。私は何故悩み苦しんでいるのか。悩みにも、苦しみにも意味があるということでしょう。大きな意味を持って生まれてきたということなのでは。苦から目覚めへ、、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと」。阿頼耶識は無覆無記であるからこそ言えることではないでしょうか。 
 

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