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「述して曰く、自下は第三に二各二を解し、尋伺を後に説くが故に。行相は同じきが故に。尋と伺とは初の二なり。染と浄とは後の二の文なり。文は易し知る可し。」(『述記』第七本・十二右)
『三十頌』に出てまいります「二各二」とはどのような意味なのかが問われてきます。これに三説あり、第三説が正義とされます。
「二各二」は悔・眠・尋・伺の四種の心所が不定であるという意義を説き、「二」は悔・眠の二と尋・伺の二に各々二種各別の意義が有ることを顕しています。
「二各二とは」について
•第一説 「有義は尋と伺とに各染・浄の二種差別有りと云う。」(『論』第七・二左)
前の尋と伺には染と浄の二類が有るのだという説になります。
次が
•第二説 (初めに前師を破す。)「有義は此の釈は正理に応ぜず。悔と眠とにも亦染と浄との二有るが故に。応に説くべし。前の如き諸の染の心所に是の煩悩と随煩悩との性有り。此の二(煩悩と随煩悩)に各不善と無記有り。或いは復た各纏と及び随眠と有りと云う。」(『論』第七・二右)
(染の心所に貪等の煩悩と忿等の随煩悩が付随し、それに不善と無記との二の性質が備わっている。或いはこの二に各現行の纏と種子の随眠の二が有ると云う。
纏は煩悩に纏わりついているものと云う意味になります。煩悩の異名。八纏・十纏を数えます。無慚・無愧・嫉・慳・悔・眠・掉挙・惛沈・忿・覆を十纏といい、自らの内心に潜んでいる悪への傾向が自らの身心を纏って自在にさせないことから名づけられました。随眠は悪への傾向で内在している煩悩のことです。表に現れていない内在化している煩悩のことを意味します。前の二(尋・伺)を煩悩と随煩悩と解釈し、後の二(悔・眠)は、その煩悩・随煩悩の二に不善と無記との二、もしくは現行の纏と種子の随眠の二が有りと解釈しています。
• 第三説(正義) 「有義は、彼の釈も亦理に応ぜず。不定の四の後に此の言有るが故に。応に言うべし。二とは二種の二を顕す。一には謂く悔・眠となり。二には謂く尋・伺となり。此の二の二種は種類各別なり。故に一の二と云う言は二の二種を顕す。此れに各二有り。謂く染と不染となり。善と不染との各唯一のみなるが如きに非ざるが故に。或いは唯染を簡ぶが故に。此の言を説けり。有るところに亦説いて随煩悩と為すが故に。」(『論』第七・二右)
安慧の説といわれ、これが正しい説です。「悔・眠」を一種類として染と不染が有り、「尋・伺」を一種類として染と不染とが有るということです。二種類の二とはこのことですね。上の二は悔・眠・尋・伺で、下の二は染・不染です。「種類各別」といわれますのは『述記』に十義顕されています。類別しますと(1)界繋の種類が別 (2)思と慧とによる種類が別 (3)仮実の種類が別 (4)断ずる時の種類が別 (5)上地の起と不起と種類が別 (6)支と不支と種類が別 (7)纏と蓋との性の種類は別 (8)語行と非行と別 (9)定散門に通ずることは別 (10)無漏に通ずる類が別ということで、「これに由って二の二は別なり」と云われます。四共に各々染・不染に通じるというのが勝義になります。悔・眠と尋・伺の二種類は染にも浄にも通じるのです。煩悩は染ということで一定していますが、この二種類は一定していないのです。ある時は染。ある時は浄と定かでないところから不定と名づけられました。
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