おはようございます。今日も雨模様です。感染拡大も日に日に多くなっています。生活様式の変化が求められる中で、仏教徒は連綿として世間のありように左右されることなく、生きることの意味を尋ねてまいりました。
これまでに種子生現行の種子について考え、認識はどのような過程を経て知りえることが出来るのかを見てきました。
種子は本識(第八阿頼耶識)の三相の中の因相について考究されていますが、四分義の認識の在り方は第二の行相所縁で考究されているところです。(『選註』p39)
第八阿頼耶識の行相と所縁について考えます。いのちはどのような対象を持ち、どのような動きをしているのかを明らかにしているところです。
『成唯識論』では問いと答えそして解義が述べられています。
「この識の行相と所縁は云何ぞ。」「謂く不可知の執受と処と了となり。」と。
不可知は行相・所縁にかかります。その中で、執受・処は所縁門、了が行相門になります。
行相とは、識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用で、心の働きです。見分のことです。
所縁は認識される対象。例えば、六根の所縁は六境である。対象、何を対象として働いているのかです。相分のことです。
ここで、
阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
行相 = 見分 ・ 了別
所縁 = 相分 ・ 器世間(有情の所依処)
「執受に二有。」諸の種子と有根身(阿頼耶識が認識し続けている対象で、感覚器官を有する身体のことです、)
初めに行相門が語られます。
「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
了別について四分が語られていました。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされていたのですね。次に、
所縁門
「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかります。
無意識の領域は、私たちには解らない。有るのか・無いのか、それが不可知という概念なのです。知ることが出来ない、知り様がないことであるけれども、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁があることが知りえることが出来るのではないかと。
了別は行相。「識は了別を以て行相と為す。」了はは識の自体分であってですね、行相とはまた、見分である。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
第八阿頼耶識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。あらゆる経験の価値観を色付けすることなく、ありのままを受け入れ、身体を維持し保持しているのが阿頼耶識なのです。
それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
大事なところは、識所変を以て、自の所縁と為すということになります。
これまでに種子生現行の種子について考え、認識はどのような過程を経て知りえることが出来るのかを見てきました。
種子は本識(第八阿頼耶識)の三相の中の因相について考究されていますが、四分義の認識の在り方は第二の行相所縁で考究されているところです。(『選註』p39)
第八阿頼耶識の行相と所縁について考えます。いのちはどのような対象を持ち、どのような動きをしているのかを明らかにしているところです。
『成唯識論』では問いと答えそして解義が述べられています。
「この識の行相と所縁は云何ぞ。」「謂く不可知の執受と処と了となり。」と。
不可知は行相・所縁にかかります。その中で、執受・処は所縁門、了が行相門になります。
行相とは、識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用で、心の働きです。見分のことです。
所縁は認識される対象。例えば、六根の所縁は六境である。対象、何を対象として働いているのかです。相分のことです。
ここで、
阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
行相 = 見分 ・ 了別
所縁 = 相分 ・ 器世間(有情の所依処)
「執受に二有。」諸の種子と有根身(阿頼耶識が認識し続けている対象で、感覚器官を有する身体のことです、)
初めに行相門が語られます。
「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
了別について四分が語られていました。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされていたのですね。次に、
所縁門
「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかります。
無意識の領域は、私たちには解らない。有るのか・無いのか、それが不可知という概念なのです。知ることが出来ない、知り様がないことであるけれども、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁があることが知りえることが出来るのではないかと。
了別は行相。「識は了別を以て行相と為す。」了はは識の自体分であってですね、行相とはまた、見分である。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
第八阿頼耶識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。あらゆる経験の価値観を色付けすることなく、ありのままを受け入れ、身体を維持し保持しているのが阿頼耶識なのです。
それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
大事なところは、識所変を以て、自の所縁と為すということになります。
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