無貪の一分であるのみの心所について説明される。
「翻随二法不慳不憍此是無貪一分。彼是貪之分故」(『述記』) (随(随煩悩)の二法(慳・憍)に翻ずるに不慳と不憍は此れ是れ無貪の一分なり。彼は是れ貪の分なるが故に。)
「不慳と憍との等きも當に知るべし亦た然なり、應に随って正しく貪の一分に翻ぜるが故に。」(『論』第六・八左)
不慳と不憍等のようなものも同様である。応に随って、正しく貪の一分を翻じたものとして立てられた心所で、貪の分位仮立法である。等とは『瑜伽論』巻第八十九(大正30・802c~903b)に述べられている不研求(フケング)乃至不家勢(フケセイ)相応尋思等の十八種を等取するという意味になります。研求乃至家勢相応尋思の十八種を翻じたものということになります。
家勢(ケセイ)については、「心に染汚を懐き、施主を攀縁して家勢に往還し、意言を起発し、随順し随転す。是を家勢と相応する尋思と名づく」
と述べられていますが、この所論は『無量寿経』巻下・五悪段が始まる前に、「横截五悪趣 悪趣自然閉 昇道無窮極 易往而無人」(横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉じん。道に昇ること窮極(グゴク)なし。往き易くして人なし。)という教説から見えてくる世界ですね。「然るに世人云々」です。「・・・宅あれば宅を憂う・・・」。心に染汚を懐いて招来する貪欲ですね。箭と喩られ闘争を引き起こす(内)因となると教えています。
「随応の言」について
「前の厭は慧と倶なり」と、厭は別境の慧と倶に働く心所であるのに対して、本科段で述べられている不慳不憍は「此れは爾らずが故に」と、ただ無貪の働きの一分を一つの心所として立てたものであることを述べています。
尚、『瑜伽論』巻第八十九の所論は『演秘』に述べられていますので、明日は『演秘』から十八種について学びます。
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