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「自下は理を為す。」
六教証があげられまして、理証が挙げられます。それが四比量(シヒリョウ)になります。
第一の量
「極成の眼等の識と云うは、五が随一なるが故に。余の如く親しく自に離れたる色等を縁ぜざるべし。」(『論』第七・二十一左)
極成とは、一般に認められていることを意味します。
第一にまとめて説明されます。
因明の論式に随って述べられます、先ず「宗」です。
(宗)は、「極成の眼等の識は親しく自に離れたる色等を縁ぜざるべし。」
眼識の対象は「色」
耳識の対象は「声」
鼻識の対象は「香」
舌識の対象は「味」
身識の対象は「触」
自の対象に離れた境を縁ずることはない、と云っています。
(因)は、「五識中の随一に摂するが故に。」
(喩)は、「余の耳等の四識の如し。」
第二の量
「余識も識なるが故に。眼識等の如し、亦親しく自に離れたる諸法を縁ぜざるべし。」(『論』第七・二十一左)
(宗)は、「極成の余識も亦親しく自に離れたる諸法を縁ぜざるべし。」
(因)は、「是れ識なるが故に。」
(喩)は、「眼等の識の如し。」
以上の二量が述べている真意は、能縁は決して自体を離れた境を親所縁とすることが出来ないということなのです。
『述記』は「即ち、これは自識に離れざる境を縁ずるを、境の義と為す。」と。
境(対象)というとですね、相分ですから客体になるわけですね。識体に離れて客体があるように思うのです。これが間違いだと指摘されているのです。パソコンの前に、何冊かの書物が置かれています。真宗聖典も、スマホも置かれています。これらは私の関心事に於いてのみ意味があるのですが、私と無関係に書物は有るように思いますね。しかし、それは眼によって捉えられた書物なんですね。捉えられなければ書物は無いのです。余識も同じです。
耳識を取り上げましても、私は騒音の中で仕事をしておりますので、耳が少し難聴になっています。小さな音が聞こえにくいのです。しかし、音を聞いているのは自分なんですね。聞こえない音は無いのと同じです。
サバンナの中で生活をされている人は、眼や耳は非常に発達していると聞いています。またテニスや卓球や野球などのスポーツをされている人は、非常に動体視力が勝れています。これらから察しても、実体としての対象は無いのです。「識を離れて境は無い」という証明になるのですね。
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