第三師の説(護法正義)を述べる。
「有義は、此の癡を不共と名くることは、不共仏法の如し。唯此の識のみに有るが故なり。」(『論』第五・十右)
(護法正義は、この癡(我癡)を不共と名づけるのは、不共仏法のようなものである。何故なら、ただこの末那識のみに不共無明が存在するからである。)
- 不共仏法 - 仏のみが具える特質をいう。十力・四無畏・三念住・大悲に分かれ、全部で十八あるので、十八不共仏法という。または、三十二大丈夫相・八十随好・四護・大悲・無忘失法・永害習気。一切種妙智に大別し全部で百四十あるから百四十不共仏法ともいう。
初は不共について説明されます。不共という名の特質を先ず述べます。護法は我癡を不共というのは、末那識のみの固有の特質であって、他の識には無いために不共という、と。これは凡夫や二乗にはない、仏のみが具える特質を不共仏法という場合の不共と同じである、と述べられています。
「論。有義此癡至唯此識有故 述曰。下文有三。一釋不共。二問答辨。三顯差別。此初也。即攝論無性。其論本意亦同於此。頌言倶行一切分故。故此無明唯此識有。餘識所無。如不共法非二乘共。不言自十八中唯一法。不與餘法共也」(大正43・410c)
「述して曰く、下の文に三有り。一に不共を釈し、二に問答を弁し、三に差別を顕す。此れは初なり。即ち摂論の無性にもあり。其の論の本意は亦此れに同なり。頌に倶に一切の分に行ずと言うがゆえに。故に此の無明は唯此の識のみに有り、余の識には無き所なり。不共法と二乗と共に非ざるが如し。自の十八の中に唯一法のみにして、余法と共ならずと言はざるなり。」(『述記』第五末・二十一左)
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