『述記』に、
「若し導き生ずと雖も、五(識)は三性並ぶと云えば、即ち(能引の)意識も一念の中に三性に通ずる義を許すべし。所引の五識既に一念の中、三性に通ずと許さば、能引の意も性必ず同なるべし。」
五識に三性が並び立つのであれば、その五識は、第六意識が引生させたものであるから、第六意識の一念の中に、三性が並び立つことになってしまう、これは正理に違することになる、と説明しています。
そして『述記』は『顕揚論』を引用してその論拠を述べています。
「若し三性倶ならずんば、何が故か『瑜伽』第五十一と『顕揚』第一と及び十七とに皆本識は一時に三性倶転すと云うや。此の文を会して云く。」 (難を釈す - もし、三性が並び立つことはないというのであれば、どうして論書に本識(阿頼耶識)は、一時に六転識の三性と倶に転ずと云うのであろうか、これはつまり同時に並び立っていることではないのか、という疑問に会通するのがこの科段になります。)
「『瑜伽』等に、蔵識は、一時に転識相応の三性と倶起すと説けるは、彼は多念に依っていう。一心と説けといえども一の生滅に非ずというが如し。(『瑜伽』等に)相違の過無きなり。」 (『瑜伽』等に第八阿頼耶識は、「一時に転識相応の三性と倶起す」と説かれていることは、それは多念(長時間にわたる心作用)に依って説かれているのである。一心と説かれてはいるが一刹那の生滅というのではない。それによって、この有義は『瑜伽』等に相違している過ちは無いのである。)
ここは難陀等の立場から説明されています。「若し三性倶ならずば、何が故に瑜伽の第五十一、顕揚の第一及び十七に、皆本識は一時に三性と倶に転ずと云う」(『述記』)という問いです。三性が並び立たないとするならば、阿頼耶識は同時に六転識の三性と並び立つというのか。六転識の三性が同時に並び立つことがなかったなら、瑜伽の第五十一、顕揚の第一及び十七に三性倶転とは説かれないのではないか。という問いですね。これに対して難陀等の立場から上記に述べました答えが説かれているのです。難陀等の解釈は「一時与転識相応三性倶起」というのは、多念にわたって、転識と相応する三性と倶転するという義であって、同時に倶転するという義ではないのであるという訳です。
次に護法の正義(三性倶起説)が述べられます。
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