唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義 (1) 二分義について 

2014-11-03 09:37:17 | 初能変 第二 所縁行相門

 然も有漏の識が自体の生ずる時に、皆な所縁能縁に似る相現ず。」(『論』第二・二十六右)
 そしてですね、有漏の識、迷いの心が起ると、所縁能縁に似て現われてくる。私が捉えたものは影像である、こころが捉えた影ですね。心の影を見ている。自分の影を見て、影が自分だと錯覚を起こしているのですね。
 「似」というのは、恰も外界に存在するかのように見えていますから、そうではなく、自分の心が捉えたもの、外界に存在するかのように心が捉えている状態を「似」と表現したのですね。ですから、能縁(認識するもの)・所縁(認識されるもの)は自体(自分の心が)転じたもの、変化したものである。認識されるものは実体としてあるわけではないが、実体に似て現われる、それが識の働きである、といっています。
 自分の心は解らないといいますが、いつもいつでも自分の心を見ているわけです。心が投影したものを見ていますから、何を見て、何を感じて、何を思っているのかはすべて心の影なんですね。
 所縁に似る相 - 相分
 能縁に似る相 - 見分
 有漏とありますが、虚妄分別の識です。無漏は仏果ですから、仏果以外はすべて有漏ということになりますから「皆」ですね。虚妄分別が自体であって相・見二分に似て現ずる、識転変です。転変されたものは現行識で、現行は種子生現行で、果能変、種子は因能変。
               
                   能縁そのもの               能縁に似て現ずる相
   種子 = 虚妄分別 〈             〉 遍計性執性 〈                〉 依他起性
                   所縁そのもの               所縁に似て現ずる相
 体に対して相を立てるのが二分説になります。二分説は難陀の説で、「内識転じて外境に似る」と説かれています。見・相二分でもって唯識を説いています。見分が体・相分が相という見方です。しかし、ここでいう二分は護法の立場からですね、「自体転じて二分に似る」、三分説から二分を説明しています。
 三分説ですが、ここに解釈の相違がでてくるのですね。二分説は難陀の説。三分説が一分説と三分説に分かれます。三分説は陳那の説なのですが、これを解釈して安慧は自体分は依他起性であるが見・相二分は遍計性執であるとして一分説を主張しています。護法は三分共に依他起であるとし、三分説を立てますが、自体分を証明する形で証自証分を立て四分説を完成させます。
 「安慧等の古大乗師は、多く唯だ識の自証分のみ有って相・見分は無しと説く。護法出で已って見・相有りと説く。『集量論』等に依って方に之を顕發す。故に先に宗を叙す。」(『述記』第三本・四十右)と釈されています。
 本文を釈する段は
 「自体の生ずる時、 - 識の自体。
  皆所縁・能縁に似る相現ず。 - 依他の二分は遍計所執の情計の二分に似て現ずる。
  能縁に似る相 - 大乗は見分に収める。
  所縁に似る相 - 大乗は相分に収める。自体分所縁の心外の相分を見分が所縁とするというに似ることから、所縁に似る相という。
  心外の法は無いのである。」

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