唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (識)所縁を以て自の所縁と為す。

2014-11-02 09:04:37 | 初能変 第二 所縁行相門


 『安田理深選集』第二巻より
 「阿頼耶識というものは、二種の世界を転変する主体である。生きていることは主体ということであり、主体が阿頼耶識である。自我は末那識である。主体というものは客体にならぬ。我々の関係は主体と主体の関係である。人間存在は主体を離れては成り立たぬ。だから共通の主体は無い。一つ一つが絶対独立である。だから有限であるが、しかしそれがどこまでも絶対である。こういうものでなければならぬ。主体というようなものを形式的にいえば、有限的な絶対であろう。・・・私の転変した器世間も、あなたの転変した器世間も、共通している。それで共相という。相重なっている。さまたげにならぬ。だから共通といっても、同一でなく相似している。厳密には、同じなのでなく同じことに似ている。実は違う。対は違うのである。似ている。共相は同一でなく相似である。共・不共はそういうことである。」
 器世間は所縁の外側のことを示し、外境として実体的に存在するものでは無く、どこまでも自の内識が転変したものであることを明確にしています。このことを『述記』は「本識の行相は必ず境(所縁)に杖して生ず。此は唯だ所変なり。心外の法に非ず。本識は必ず実法を縁じて生ずるが故に。若し相分無くんば見分生ぜず。即ち本頌に境を先にし、行を後にするの所以を解すなり。杖と云うは謂く杖託なり。此の意総じて見は相に託して生ずることを顕す。」と釈しています。
 自体が転じたものを縁とし、そこに行相が働きかけて、執受と器世間そして行相の三つがものが混在して、私は私の世界を構築していることを教えられます。
 次科段より広説が述べられます。初めに行相を解釈し、後に所縁が解釈されます。そして初めの行相について、三つに分けて説明されます。一には、護法菩薩が行相である「了」を釈してこれが正義であることを述べ、二に、四分を明らかにし、後に総結が述べられます。
 初に正義を述べ、「了」の言が解釈されます。
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て、了別の用有るなり。」(『論』第二・二十六右)
 「此」は第八識の行相を解釈すると云う意味になります。次に「異熟識いい自の所縁に於て」というのは、所変の影像であり、親所縁の相分である。疎所縁である本質を指しているのではないということです。見分に対して相分は親所縁であり、本質は疎所縁ということになります。見分は相分の於に了別の働きが有ることを明らかにしました。
 本科段より、心の構造ですが、心はどのような構造をもって働いていくのかが四分義をもって検討されます。初めに相分・見分の関係が述べられています。「識体転じて二分に似る」というところです。識体が能変、転じられたものは所変、所変の中の相分が所縁として能縁である見分が認識を起こすという構造ですね。「諸識の所縁は、唯だ識の所現のみ」であり、すべては依他起性の世界である。迷い(虚妄分別)も目覚めも依他起性である。縁起によって迷いも成り立ち、目覚めも成り立つとうことでしょう。
 能縁という能動的な働きが見分、それが了別という、ものを区別して知っていく働きを見分というんだと。
 本質と影像は以前にも述べていますが、復習として今一度整理をしますと、簡単にいいますと、第八識の所変を本質といい、諸識の所変を影像というんですね。影像は諸識の直接の所縁ですから親所縁といい、第八識の所変は本質ですから、間接的な所縁であることから疎所縁といわれます。
 例えば、第八識と第七識との関係ですが、第七識は、第八識の見分を所縁として(本質)、自識の相分上に影像を変現し、それを親所縁として「我」と執するのですね。第七識が末那識といわれる所以です。
 「此の了別の用は見分に摂せらる。」(『論』第二・二十六右)
 ものを区別して知っていく働きの面を見分というのだ、と。

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