唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (73)九難義 (13) 唯識成空の難 (6)

2016-08-25 23:34:45 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 『二十論』第十頌から第十四頌において、五識の対象である五境、色・声・香・味・触そのものが外界に実在しないことを論証しようとしていますから、『三十頌』の背景になるのですね。つまり、唯識無境を証明する箇所になるからです。
 それは外界実在論者との対話によるものであり、六派哲学の思索の上に『二十論』は位置しているものと思われます。
 例えば、五蘊ですが、それぞれがバラバラの状態では色形は生まれてきません。和合して初めて色形が相を為すことができるのですね。これが、和合する所の原子が有るとする説の原初体が勝論学派の主張です。
 外界実在論者の反論は、仏陀がお説になられた五根・五境の十部門の教説を物質的なものとして(有として)実在する根拠にして問いを立てていることです。仏陀の説法は対機説法と伝えられていますように。世俗の有様をもって説法をされたのです。識が生まれるには、身体に根が有り、対境には実体的なものが存在して、根・境の循環的相応に依って識が生れるということに執着したのです。『二十論』では仏の密意趣として「仏意測り難し」と、その言葉通りに捉えるべきではないと云います。五境は識の織りなす世界であると。

 梵文和訳より
 「(一)そのうち、単一なものは(認識の)対象とならない。というのは、(対象の)諸部門と別に、単一な全体性などどこにも認識されはしないからである。(二)原子の一つ一つは、(対象の形象をもつものとして)認識されはしないからであるから、多数の原子が(対象の形象をもってあらわれる)こともない。(三)さらに、それらが集結したものも認識の対象とはならない。というのは、(集結体の部分としての)原子が一つの実体であつとは証明されないから(それらが集結体を構成することもありえないからである)。

 勝論学派は、この世界は複数の構成要素である原子の集合体から形成されていると説きます。つまり、多元論的世界観なのです。これが積集説(アーランバ・ヴァーダ)の代表説とされます。
 勝論の由来は、ヴィシェーシャ(特殊・区別)という語により、六句義を設定して、これによって現象界の諸事物がどのようにして形成されているのかを分析解明しようとしています。
 六句義
  実体(実)・属性(徳)・運動(業)・普遍(同)・特殊(異)・内属(和合)という六種のパダールタ・範疇範囲・原理をいう。
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 saryasomaさんのブログより引用させていただきます。
 「まず、正統バラモン教六派哲学の一つである勝論派(ヴァイシェーシカ)の捉え方について考えてみたいと思います。
 六派哲学はサーンキャヤ、ヨーガ、ニヤーヤ、勝論(ヴァイシェーシカ)、ミーマンサー、ヴェーダンタの六体系のことです。それぞれの詳細は、また別の機会に譲りたいですが、この中の勝論派(ヴァイシェーシカ)は、紀元前2世紀ごろ、カナ―ダ(Kanada、別名ウルーカ)という人が始めたといわれます。
 論派の特徴は六句義(後にさらに増えているようだが、ここでは最大公約数的に六句義で考えます)を立てているところです。世界の構成、事象、人間の行為等を六つの句義(padartha,カテゴリー的なもの)で説明しようという客観主義的、合理主義的な色彩の強い思想で、ミーマンサー等のように、ヴェーダに強く依存するというよりも一般社会の思想傾向に近いといえます。
 六句義では、まず実体と属性を厳密に区別します。実体を「実」(dravya)と称し、また属性のうちの主として静的属性を「徳」(guna)、動的属性を「業」(karman)と呼びます。実、徳、業はそれぞれ独立しているが、離れて存在することはできない、必ず密着不離に存在するから、この関係を「和合」(samavaya)(六句義の一つ)といいます。
 さらに、具体的に存在するものは、より一層普遍的なものの内に所属しますが(形式論理学的にいえば類)、このことを実在視して「同」(samanya)句義と呼びます。反対に存在するものが、一層普遍的でないもの(さまざまな特殊なもの)を包含している(形式論理学的にいえば種)ことを「異」(visesa)句義としています。
 実・徳・業・和合・同・異で六句義です。
 「実」には地・水・火・風・空・時・方・我(アートマン)・意の九種、「徳」には色・香・味・触・数・量・別體・合・離・彼體・此體・覚・楽・苦・欲・瞋・勤勇の十七種があります。
 そして、肝心の「業」には、取・捨・屈・伸・行の五種があります。取・捨は手で取ったり離したりのイメージからこの漢字を当てはめたといわれていますが、取は上方への運動、捨は下方への運動です。屈は一方に、縮まる運動、伸は伸びる運動、屈伸で水平の運動を示しています。行は垂直水平の複合したものです。取・捨・屈・伸・行の五種はすべて運動を表しています。
 この業には、運動の余韻、余力が生じると考えます。この余力が、不可見力として(輪廻を認めるとすれば)次の生まで及ぶと考えるようになります。善業ならばその善い余力が、悪業ならばその悪い余力が、先天的の宿命的勢力として次の生を支配すると考えるわけです。これが宿業的な考え方に結びついてきたのでしょう。
(この稿は、主に宇井伯寿著「印度哲学研究・勝論経における勝論学説」に負っています)
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 少し付け加えますと、実体とは、四元素と虚空と時間と方角とアートマン(我)とマナス(意)の九つです。四元素はそれぞれ原子(極微)からない、原子は球体状であり、無数で不滅で、分割できず、微細でであって直接知覚されることがない。原子は二つ以上が結合して複合体を形成して、われわれが現実に近くできるものとなるが、これらの複合体は無常であり、破壊され変化するものである、と説かれます。
 このように見ていきますと、(一)の答論の意味がはっきりします。
 すみません、また明日にします。おやすみなさい。

 

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