唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(22) 作意の心所 (5)

2015-09-20 01:07:57 | 初能変 第三 心所相応門
   
 
 「此は亦能く心所をも引き起こすと雖も、心いい是れ主たる故に但だ心を引くとのみ説けり」(『論』第三・二右)
 本科段の前章として玉置氏の論文を引用させていただきましたが、作意の心所はそれほど理解しがたいものなんです。作意の種子が阿頼耶識の種子を警覚し、心を目覚ます、触だけでは、一切の心心所を境に触れしめるが、それは対象を指向するという意味であって、そこには一切の心心所が起こっているわけではないのです。そこに分別が働いて、特定のものを見聞きするわけですね。それは作意の働きに依るものです。『論』には「所縁の境の於に心を引くを以て業と為す」といわれ、つまり、「起こすべき心の種を警覚し、引いて境に趣かしむるが故に」と説かれているわけです。
 安田先生は、「作意というのは、マナスーカーラ、心(ママス)を用かせる、心を動かす(カーラ)という意味である。」と述べられていますが、玉置氏は松久保秀胤師の「人は集中することによって阿頼耶識を活性的に働かせています。この対象に注意を向けさせる心作用を、唯識では「作意の心所」といいます。これが能蔵でしょう。能動的かつ積極的に感受・認識しようとしているわけです。」を引用し、次のように述べれおられます。
 「現象学の「指向性」に相当する概念がありそうである。・・・「作意」は、対象に向かって「心をひきつける」のであり、、そして「対象」は原文では「所縁」であるから、認識の対象(所縁)は認識に依存される(縁る)ものであるということである。従って、すべての意識体験というものは「何かについて」の意識であって、主観と客観が先にあり主観が客観を認識する体験ではないという、次に引用する現象学の指向性と対応しているのである。」
 [補足しますと、認識が成り立つのは、心王である識体が、外境に似て現じたものを、自らの内に、認識対象である客観(認識されるもの・相分。ノエマ)と認識主体である主観(認識するもの・見分。ノエシス)を変現させて認識を成り立たせているのです。認識される対象が先ずあって、認識が起こるのではないということです。『論』には「識体転じて二分に似る」と説かれています。]
 「意識体験を私たちが指向性と呼ぶ時、この指向性という言葉は、何かについての意識であること、すなわちコギト(思うこと)としてそのコギタートウム(思われたもの)を自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。・・・「作意」は「種子」を介して「地平」に関係しているということが言えるのである。・・・「作意」というものは、何かについての意識であるとともに、地平をも伴っているということである。」と述べておおられます。
 つまり、作意の種子は阿頼耶識の種子と関係しつつ、現行を伴う地平をも持ち合わせているということなのだと思います。作意の種子は一切の心心所の起こる不可欠の条件になってはいますが、作意は種子と関りをもつのですね。
 例えば、眼識が起こる場合は、種子と第八識と第七、第六、作意、境、根、明、空の九縁をもって生起するわけです。
     耳識が起こる場合は、明を除いた八縁にあり、鼻識・舌識・身識には空は要りませんから七縁になります。
     第六意識では五縁、第八識は四縁、第七識は根・作意・種子の三縁で生起しますが、いずれも作意は一切の心心所が生起することの不可欠の条件になっています。
 
 「述して曰く、即ち是の作意は遍く能く警覚すれども、但だ心のみを説くことは是れ主たるが故なり」と釈しています。
 
 何かについての意識(指向性)を成り立たせるのが、触と作意の心所である。これが受・想・思の所依となり、なにかについての受・想・思が起こってくるのです。

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