唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 ・ 標名門 (1)

2011-01-03 18:04:50 | 第二能変 標名門

Img05 親鸞聖人、遠流の地、居多浜

 承元の念仏弾圧の記録は『教行信証』化巻末(真聖p398)に記されてはいるが、どこに遠流されたかは、明確にには記されていない。しかし、『歎異抄』(真聖p641)には「親鸞は越後国」と記され、『血脈文集』(真聖p599)に「流罪越後国国府」と記されているところから、現、新潟県直江津市であったことが知られる。写真は遠流の地、居多浜、荒れ狂う日本海を目の当たりにして、配流の生活の苦難さを思わずにいられない。大体遠流の地は塚と呼ばれる死人を捨てる所に一間の堂を立てて日暮しをするわけです。その有様は「夜は雪・雹(ひょう)・雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず。心細かるべし」(日蓮・『種々御振舞御書』)という日蓮の記事からも窺える。しかし、親鸞聖人は、この地で命とともに生きる人々と出会うのである。

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 第二能変 依所問以弁其相(所問に依って其の相を弁ず)

 問、 何故に本識には所依を云わずして、次の能変の中に彼の依の体を解釈するのであろうか。

 答、 本識は諸識の根本であるので、七転識の為に所依となる意義を顕す。第七識は第八識の為に所依となる意義は隠されているので、よってその所依は出さないのである。第七は既に第八の余である。よってその依の体をだす。

 問、 もしそうであるならば、本識は七転識の為に所依である意義は明かである。何故にこれを説かないのか。

 答、 前頌にすでに説いた。彼の頌に 「恒に転ずること暴流の如し」 と。「流の如し」の言の意義は、余識を生ずることであるので、これは即ち依の義であること明らかである。

 問、 では何故に第七識は第八識の為に所依となることを説かないのか。

 答、 影略門である。初能変には、ただ所縁のみを解釈した。故に前の頌に「執受処」と言うは、これである。第三能変にはただ所依をのみ解釈する。故にのちの頌に「本識に依止す」と言う。第二能変には所依と所縁とを具に顕す。

 問、 何故、本識には界繋を出さないのであろうか。

 答、 本識は異熟能変と称され、異熟というのは三界繋続であるので論主は略して述べない。いずれの界に随っても異熟をば彼の界に繋続するので、第二能変も同様である。(『述記』第四末・四十七右)取意。

          ー 第一門・標名門 (1) ―

 「論に曰く、初の異熟能変の識に次いで、後に思量能変の識の相を弁ずべし」(『論』第四・十二右)

 長行により説明する。 (下に二文有り) 

 一に八段を以て十門を依釈する。

 二に二教六理を以て此の識有りと証する。

 初の段に二有り(初がさらに二つに分かれる)。一に、頌を解釈し、ニに問答(第七識を意と名づけた場合に起きる問題を検討する)

 本頌を解釈するのにまた二つに分かれる。一に、第七識の能変の体について説き、二に第七識が末那、意と名づけられる理由について説かれる。これは一である。

 「頌の初句の第二能変を解して、まさに思量能変識の相を弁ずべしと云うは、即ち頌の中の能変という言を出すなり。能変の名を釈することは第二巻(『述記』第二末)に解すが如し。」(『述記』第四末・四十八左)


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