唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (39) 金剛の信心

2011-06-26 14:07:53 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (39)

                蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「この信心をうれば、等正覚にいたりて、補処の弥勒におなじくて、無上覚をなるべしといえり。」

 「等正覚」ともうしますのは、この場合は正定聚のことでございます。正定聚を等正覚ともうされる。もう仏になるということに一念もうたがうことがないという立場ですから、妙覚、仏の位を妙覚というなら、妙覚の前の等正覚です。等正覚ということには、仏のさとり、成等正覚という無上覚と同じ意味で等正覚という言葉が使われる場合がありますけれども、ここでは正定聚と同じ意味で用いられるのであります。「補処の弥勒に同じくて」と。釈尊のあとを必ず補なわれるという意味で、弥勒菩薩のことが伝わっておるわけでございますから、それで弥勒菩薩を出されて、必ず無上覚に成るのだといわれるのであります。ですから次に、

  「すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。」

ということなのだ、といわれております。

  「このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれむこと、金剛のごとくなり、」

 「金剛のごとく」というのは、弥勒菩薩の等覚の金剛心ともうします。弥勒菩薩のさとりのことを金剛心というのでありますが、いまは真実信心は、いかなるさわりにも、いかなるさまたげにもやぶれず、また、かたぶきもしない、また、みだれもしないということを「金剛のごとく」といわれるのであります。

  「しかれば、金剛の信心というなり。」

 「金剛の信心」という言葉は、もとは善導に「金剛心」という言葉がありまして、『玄義分』のはじめに「正受金剛心」とあるんです。「まさしく金剛心を受け」と。「正受金剛心」という言葉があります。

  「証智未証智 妙覚及等覚 正受金剛心 相応一念後 果徳涅槃者」

とあります。それと『三心釈』の「回向発願心釈」です。

  「この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、」

とあります。「作得生想」とありまして、その「得生の想を作せ」という言葉について、「この心深信せること、金剛のごとく」とあります。ですから、「やぶれず、かたぶらず、みだれぬ」ということには、いわゆる深信ですね。深信という、深く信ずるということです。いかなる人がやぶっても、それにやぶられない。それからまた『二河白道』譬喩などのありますように、群賊悪獣によってもやぶれず、みだれないという意味です。そういうものが背景となっております。

  「『大経』には、『願生彼国 即得往生 住不退転』とのたまえり。」

 これは、本願成就の文をお引きになりまして、

  「『願生彼国』は、かのくににうまれんとねがえとなり。『即得往生』は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。」

 これは証文として出されるのでございます。

  「成等正覚ともいえり。」

 これは異訳でございます。「成等正覚」という言葉が『如来会』にありますので、それを指されるのであります。

  「これを『即得往生』というなり。『即』は、すなわちという。すなわちというは、ときをへず、日をへだてぬをいうなり。」

  「ときをへず、日をへだてぬ」ということは、本願の名号を引いて、そして「本願を信ずる」そのときということです。その「ときをへず」、また、それから「日をへだてぬ」ということをいうのだと。「即」というところに一念ということ、「乃至一念」ということがあるのを略されております。

  「おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八の大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大海の誓願を成就したまえるによりてなり。」

 言葉の説明は別にもうしあげるまでもありませんが、特に「一乗大海の誓願」ということですね、これはまあ一応説明の必要な言葉と存じます。」

  「『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにて、あきらかなり。証誠護念の御こころは、『大経』にもあらわれたり。すでに称名の本願は、選択の正因たること、悲願にあらわれたり。この文のこころは、おもうほどはもうさず。これにておしはからせたまうべし。」

 「この文のこころは」ともうしますのは、十七願のことでございます。

 一段おわりまして、それからこのあとの「この文は」というのは、偈文であります。『法事讃』の偈を指されて、「この偈文は」という意味です。

  「この文は、後善導法照禅師ともうす聖人の御釈なり。この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまえり。」

 法道和尚と慈覚大師はお伝えになったというのであります。別人らしいのでありますけれども、そういうふうに伝えられとことを述べられるので、歴史的に法道和尚はどうのこうのといろいろありますけれども、そういうふうに伝え「られたわけであります。

  「また『伝』には、廬山の弥陀和尚とももうす。浄業和尚とももうす。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり、このゆえに後善導ともうすなり。」

 伝説は、これは確定的な史料ではありませんので、ただこういうふうにいい伝え、いい伝えして、法照禅師という方はいろいろに伝えられておるようであります。このいい伝えの方を大切にすべきでありました、歴史学的にこうであったということの方は参考にすべきだと思います。伝えられてきたものの方が生きておるのでありました、調べてこうだったというのは、いわゆるほじくってですね、もうこういう偈文の意味などとは無関係に人間というものが、どうだこうだということでありますから、いわゆる全く物質的立場からの見方になりますので、注意を要するのでございます。物質的にどうであったというてもそういうものは何の力もありません。それよりも伝説的に伝えられたということが大切に受け取らねばならん問題を含んでおります。

                  第四講 完了。 


『唯信鈔文意』に聞く (38) 普賢の徳に帰す 

2011-06-19 17:39:26 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (38

                    蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より 

   「無上覚にいたるとももうすなり。」

 無上覚、この上なしのさとりというのは、通りいっぺんなのですけれども、無上に人を利益するさとりです。「天上天下唯我独尊」というて、一番てっぺんまで行ったようなことを思うのですけれども、この上なく衆生を済度するところのさとり、衆生を教化利益するさとりです。常楽も、衆生教化の常楽であります。たのしむ世界です。そして無上に利益する苦悩の衆生がおらなくなったら尽きてしまうのです。さとりも尽きてしまうのです。衆生は無限である。衆生が無限であるが故に、さとりもまた無限であるというのです。そういう意味で「無上覚にいたる」と。一面においては、この上なし、一面においては尽きることなし。そういう意味で無上覚ともいうのであります。ですから、

  「このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて、生死海にかえりいりて」

 生死海は迷いの衆生の尽きない世界です。そこへかえり入る、と。先には「来」が「かえる」という意味であったのですが、こんどは、「かえりいりて」と。「かえりいりて」というのは、こんどは「きたる」んでしょう。こんどは生死海に「きたる」わけです。「かえりいりて」は「生死海にきたって」ということになります。

  「よろずの有情をたすくるを、普賢の徳に帰せしむというなり。」

 このままが法性の常楽の中から出てくるという。法性の常楽そのものが出てくる。出てくるままが何も特別に出てくるんじゃないんです。法性常楽のままなんです。出てくるままが法性常楽なんであります。

 「普賢の徳」は文字通り、あらゆる衆生に応じて教化し、利益を与えることでございます。ですから、通りいっぺんの一律の教えじゃないわけです。釈迦は先ほど申しましたように、縁起を説かれた、八正道を説かれたんだと、一律のですね、一律の教えを説かれたようにみな思うております。一律のように考えてしまいます。しかし、普賢の徳に帰して、衆生を教化利益せられたということになれば、一律じゃないわけでしょう。あらゆる変化に応じ、あらゆる衆生に応じ、あらゆるところに応じて教化し、利益せられるという、それが「普賢の徳」でございます。

  「この利益におもむくを、『来』という。」

と。これはもとへ戻ったわけです。先程「来」とありましたが、はじめは「法性のみやこにかえる」のを「来」という。今度は衆生利益におもむくを「来」という、と。

  「これを法性のみやこへかえるというなり。」

と。おもむくままが「来」で、かえるわけです。「法性のみやこへかえる」という意味になるわけです。なぜかというたら、「来」というのは、衆生を法性のみやこへかえらしめることで、衆生をかえらしめるというときにはかえらしめる、と。かえらしめられる衆生と、しめる仏と別々におるわけじゃありません。一つでありますから、法性のみやこへかえるということと、くるということとが別ものでない、一つであるという意味から出るのであります。これを、「法性のみやこへかえるというなり。」とおっしゃるのであります。

  「『迎』というは、むかえたまうという、まつというこころなり。選択本願の尊号・無上智慧の信心をききて、一念もうたがうこころなければ、真実信心という。」

 むかえるということです。「むかえたまうという、まつというこころ」だと。これは「選択不思議の本願の尊号」です。「選択本願の尊号」というところが、別の版では「選択不思議の本願」とあります。「選択」は本願の尊号を一切衆生の根機にあうように、特に一切衆生の根機のうちで標準は下根の凡夫、悪人です。愚かな、無知な、罪の深いものを標準にして一切衆生を平等にさとりにいたらしめるというのを「不思議」というのでございます。その悪人が無上のさとりを得るということを「不思議」というのでございます。

 その「本願の尊号」、それから「無上智慧の信心をききて」ですね、「無上智慧」は「選択不思議の本願」を「無上智慧」というのでございます。「無上智慧」という、「無上智慧」によって選択せられたわけでありますから、選択せられたものがまた「無上智慧」であります。無上の智慧の信心と選択不思議の本願の尊号というものとは一つでありますので、「無上智慧の信心をききて」とおっしゃるわけです。

  「一念もうたがうこころなければ、真実信心という。」

 一念もうたがうこころがないからです。「なければ」というのは、「なければこそ」という意味でみてよいかと存じます。しかし、条件的にみてもいいような気もいたします。「一念もうたがうこころがなかったならば、真実信心という。」という両面がある。しかし、本質はうたがうこころがなければこそというのが本質なのです。真実信心というのだと。「なかったならば」では、あるわけですからですね、真実信心といわれませんが、なければこそ「真実信心」というと。

                     (つづく)


『唯信鈔文意』に聞く (36) 法性・真如実相 (その3)

2011-06-07 23:53:40 | 信心について

     『唯信鈔文意』に聞く (36)

                     蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「これを、真如実相を証すともいう、無為法身ともいう、」

 法性ということは、また真如となづけられるわけであります。真如は真実にしてつねのごとし、如常です。昔から真実如常、つねのごとし。如常ともうしますのは、いわゆる常という意味は変わらないという意味をもうします。常という意味の一面です。まだ意味が多くありますけれども、変わらないという、それが先程もうしました空という意味です。変わらないという意味を持っております。いつでも、いかなるとものでも、いかなるところにおいても、変化しない。永遠に変わらんのだという意味は、我々の常識の立場から考えたときには固定的な意味です。動かない意味の変わらんという、固定です。あるいは「我」です。我と考えられる。我という意味で考えられるのであります。我というのは一貫していつも変わらんということです。

 そういう立場から見たものは偽りでありますから、その偽りの見方に対して真実です。真実の立場、真実の意義。それから我に対しては、常の如し、如という、ありのままです。如はありのままという意味であります。なにがありのままかかともうしますと、空という意義がいつでも、どこでも変わらない、変わるなかにあって、変わらないわけです。縁起もやはりそうです。あらゆるものは変わるのだ、と。固定したものはない、と。相対的に生ずるのであるからです。生ずるものが固定して絶対的にいつまでもあるということはない。そういう意義が縁起であります。しかし、その縁起の法、その法ですね、相対して生ずるというものの他にない。法はこれは変わらないということです。そういう意味において常というのであります。その常は我という意味の常でありませんから、「如」という字をつけまして 「常の如し」 と。その真実と如常をとり、略して「真如」とよみ、さとりの名前としてきたわけであります。

 実相ともうしますのは、真如のことを実相というのですが、真ともうしますと偽りに対するものでありますから、あるいは偽りということになれば、我々の煩悩によって見るところの虚偽、真実でない相です。そういうものに対する見方と考えられますから、そういう言葉は我々の間違った見方に対する言葉をとっております。真如はですね。しかし、実相というのは我々の間違った妄念の世界というものです。妄念の世界とは別に真如の世界がどこかに存在するというのではないと。妄念の世界そのままが真如の世界なのだ。妄念の世界そのままが仏のさとりの如実な、如実ともうしますさとりの智慧をもって照らしてみる世界が真実のさとりの世界である。二つないのだ、ということです。二つないのだけれども、しかしながら、妄念とそれから真実とは違うのだということです。その意味で、真如というて、うそ偽りと区別をし、実相というて、うそ偽りのままが真実の世界なのだと。その真実の世界は如来の智慧です。如来の智慧によると、うそ偽りのものが真実の世界なのだと。こういう意味で、妄念の世界と真実の世界とが即する。離れないで即するという。一体であるが、一体でありつつ全然別のものとして見るのが我々の立場。一体であって少しも変わることがないと見るのが如来の立場。同時に如来の立場から見たらいずれも真如の世界である。衆生の妄念の世界をまた妄念の世界のままに見ることもできる。衆生が見ておるままに見ることができるのです。それを実相というのでございます。ですから、我々の見ておる世界の一つ一つ、一木一草実相でないものはない。胸に起こった一つの思いも実相でないものはない。こういう意味なのであります。実相というのは「生死即涅槃」とか、あるいは「煩悩即菩提」という言葉で表現するのでございまます。実相というときには煩悩のままが菩提である。生死のままが涅槃であるということを実相というのでございます。   (つづく)


『唯信鈔文意』に聞く (35) 法性・真如実相 (その2)

2011-06-06 22:45:20 | 信心について

   『唯信鈔文意』に聞く (35)

                  蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

それから「みやこ」というときには、一切の万物のあつまるところでしょう。「みやこ」というのは、国中の人間なり、文化なり、あらゆる富なりが集まるところでしょう。一切万物の功徳、利益、値打ちのことごとくがあつまるところ、そういう意味で「みやこ」というのでございます。人間世界の「みやこ」というのでございます。人間世界の「みやこ」は一国に一箇所しかありませんけれども「法性のみやこ」ともうしますのは、さとりのところに、人がさとりをひらいたらそこに「みやこ」というものがある。この「みやこ」という意味をあらわしたものが極楽浄土です。その意味で極楽浄土というのは、「法性のみやこ」という意味をあらわし、あらゆる功徳がことごとく満足して一つも欠け目のないという意味を説かれるわけも、こういう仏法の道理からもうして当然のことでございます。しかしこの場合は、何も往生浄土だけではありません。この世においてさとってもそうなのです。どこでさとりましても、さとった世界は極楽浄土だと、こういえるのであります。

 そういう意味で、いま念仏の往生が真のさとりであるということを示されるのですが、その真のさとりであるという意義をことごとくそなえておる意味において、こういうふうに、法性とか、法身とかいうような意義をもって説明せられておるわけです。法性のさとり、法身のさとりというものをひらくということが大乗仏教です。つまり聖道門のさとりの究極の目標であります。そのために極楽に生まれたいと願うわけでもありますから、したがって真実のさとりであるということをそれによって説明せられるというわけであります。 (つづく)


『唯信鈔文意』に聞く (34) 法性・真如実相 (その1)

2011-06-05 20:41:38 | 信心について

 『唯信鈔文意』に聞く (34)

         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「空というのは如実の観察です。それが法性なんです。法性という意味でございます。すべての存在の根本が空である。根本ということは、もとということになると、あるがままですね。あるがままが空である。根本ということは、もとということになると、あるがままですね。あるがままが空である。やがてなくなる意味で空というわけでもないんです。それは断空というんです。辺空というんです。いずれ無くなるだというんです。あるがままに空である。あらがままを、煩悩の観察で我々は有と見ておるが、そのまま空なのだ、と。それをありのままに知ったというのです。

 法性という意味には、こういう意味がございますから、ですから「法性のみやこ」です。法性はそのまま「みやこ」なのです。あらゆる存在の本性、性、これは根本と。ですから、松ノ木の本性へかえれば一切万物の本性へかえったことになるわけです。

 「法性のみやこへかえるともうすなり。法性のみやこというは、法身ともうす如来の、さとりを自然にひらくなり。」

 いわゆるさとりを自然に開くのである。如来のさとりを法身というわけです。つまり法性というものを身とせられるのが如来。なぜかというたら如来の智慧は、一切万物の本性をさとる智慧、さとったらその智慧の中に一切万物がみな摂まるわけです。空ですから、空なるが故に一切万法ことごとくその身におさまる。したがって如来のさとりを法身というのでございます。法身という如来のさとりです。つまりあらゆる存在が如来の身となるわけです。つまり我々のからだと一緒です。我々が頭の髪の毛まで自分の体のうちだといえるのは、ひっぱると痛いからです。ひっぱっても痛くなければ病気になったんでしょう。爪でもやっぱり切り違うと痛いですからね。掻き傷が出来ても血がでるという。そういう意味で一切万法がことごとく如来のさとりの内容となってしまうわけですから一切の法は如来の身となる、と。こういう意味で法身ともいうのであります。法性を法身ともいう。あわせて「法性法身」ともうします。法性というのは万法について名を立てる。法身というたら仏について名を立てるわけです。一緒にして「法性法身」というのは仏のさとりをあらわすことになります。

 そういうわけで、「さとりをひらくときを、法性のみやこへけるともうすなり」と。「さとりをひらく」ということは、つまり一切の万法の根本の性をさとるわけです。したがって、その智慧は空智ともうしまして、あらゆるものを入れるわけです。どんなものをも入れられる。空でありますから。空でなければ、はまりませんけれども、空であるからどのようなものでも、栗のいがであろうと、それから刃であろうとも、入れられる。それが空です。

              (明日につづきます)


『唯信鈔文意』に聞く (34)

2011-05-29 17:20:27 | 信心について

          『唯信鈔文意』に聞く (34)

                蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』 より

 「空というのは如実の観察です。それが法性なんです。法性という意味ございます。すべての存在の根本が空である。根本ということは、もとということになると、あるがままですね。あるがままが空である。やがてなくなる意味で空というわけでもないんです。それは断空というんです。辺空というんです。いずれ無くなるんだというんです。あるがままに空である。あるがままを、煩悩の観察で我々は有と見ておるが、そのまま空なのだ、と。それをありのままに知ったというのです。

 法性という意味には、こういう意味がございますから、ですから「法性のみやこ」です。法性はそのまま「みやこ」なのです。あらゆる存在の本性、性、これは根本と。ですから、松の木の本性へかえれば一切万物の本性へかえったことになるわけです。

 「法性のみやこへかえるともうすなり。法性のみやこというは、法身ともうす如来の、さとりを自然にひらくなり。」

 いわゆるさとりを自然に開くのである。如来のさとりを法身というわけです。つまり法性というものを身とせられるのが如来。なぜかというたら如来の智慧は、一切万物の本性をさとる智慧、さとったらその智慧の中に一切万物がみな摂まるわけです。空ですから、空なるが故に一切万法ことごとくその身におさまる。したがって如来のさとりを法身というのでございます。法身という如来のさとりです。つまりあらゆる存在が如来の身となるわけです。つまり我々のからだと一緒です。我々が頭の髪の毛まで自分の体のうちだといえるのは、ひっぱると痛いからです。ひっぱっても痛くなければ病気になったんでしょう。爪でもやっぱり切り違うと痛いですからね。掻き傷が出来ても血が出るという。そういう意味で法身というのであります。法性を法身ともいう。あわせて「法性法身」ともうします。法性というのは万法について名を立てる。法身というたら仏について名を立てるわけです。一緒にして「法性法身」というのは仏のさとりをあらわすことになります。

 そういうわけで、「さとりをひらくときを、法性のみやこへかえるともうすなり」と。「さとりをひらく」ということは、つまり一切の万法の根本の性をさとるわけです。したがって、その智慧は空智ともうしまして、あらゆるものを入れるわけです。どんなものをも入れられる。空でありますから。空でなければ、はまりませんけれども、空であるからどのようなものでも、栗のいがらであろうと、それから刃であろうとも、槍であろうとも、入れられる。それが空です。

 それから「みやこ」というときには、一切の万物のあつまるところでしょう。「みやこ」というのは、国中の人間なり、文化なり、あらゆる富なりがあつまるところです。一切万物の功徳、利益、値打ちのことごとくがあつまるところ、そういう意味で「みやこ」というのでございます。人間世界の「みやこ」というのでございます。人間世界の「みやこ」は一国に一箇所しかありませんけれども「法性のみやこ」ともうしますのは、さとりのところに、人がさとりをひらいたらそこに「みやこ」というものがある。この「みやこ」という意味をあらわしたものが極楽浄土です。その意味で極楽浄土というのは、「法性のみやこ」という意味をあらわし、あらゆる功徳がことごとく満足して一つも欠け目のないという意味を説かれるわけも、こういう仏法の道理からもうして当然のことでございます。しかしこの場合は、何も往生浄土だけでありません。この世においてさとってもそうなのです。どこでさとりましても、さとった世界は極楽浄土だと、こういえるのであります。

 そういう意味で、いま念仏の往生が真のさとりであるということを示されるのですが、その真のさとりであるという意義をことごとくそなえておる意味において、こういうふうに、法性とか、法身とかいうような意義をもって説明せられておるわけです。法性のさとり、法身のさとりというものをひらくということが大乗仏教です。つまり聖道門のさとりの究極の目標であります。あおのために極楽に生まれたいと願うわけでありますから、したがって真実のさとりであるということをそれによって説明せられるというわけであります。

    (法性ということ、その(1) 完 ・つづく)


『唯信鈔文意』に聞く (33)

2011-05-22 17:37:03 | 信心について

           『唯信鈔文意』に聞く (33)

                 蓬茨祖運述 『『唯信鈔文意講義』より

  「そういうことで人間が考えますというと、発展説になるわけです。ところが、いま諸法を物などといわないで、物という考えもふくめるんです。こころもふくめる。人間の考えですからすべてはこころになるわけです。ものというものも人間の考えですからね。ものなんだ、物質なんだという考えですからですね。物質という証拠には、触れるとこに在るでないかと思う。人間がそう思うだけのことです。

 諸法、よろずの存在するもの。ものと思うておるものであれ、こころと思うておるものであれ、すべてのものは根本は何かというと、これは簡単なんです。これは分かりやすくもうしますと、縁起です。諸法の根本は縁起である。なんでもない話です。仏教からもうしますれば当たり前なんです。諸法の根本は縁起である。縁起の理というものをさとったのが仏なのです。縁起の理をさとったら、すなわちこれ一切万法をさとったのです。一切万法というものが明瞭になったということです。

 では、縁起ということはどういうことかともうしますと、あらゆる存在はみな相互関係よりほかないんだということです。陰子とか、陽子とか、中性子とかいうのは相互関係だけです。ですから中間子というのはどういうものか。ちょっと見せてくださいといって、顕微鏡でみれるものでないんです。あれ、なんにも見られないのです。ちかよると害になるだけです。ですから結局鉛の箱へ包んでおくのでしょう。重水素というようなものです。ウラニュウムから抜け出した、そういう物質ですね。それで鉛の箱に入れておくんです。そうすれば、相互関係のもとに存在するものです。それを取ってしもうたら駄目なんです。散らばってしまいましてですね。ですから、相互関係のもとに存在するものばかりである。その他にないんだということをさとったのが仏なんだ、と。そういうことなんですね。

 ところが、分かるのとさとるのとは違うんです。「なるほどそうか」では「さとった」にならんのです。なぜかというたら、腹が減ってきたというのは相互関係です。縁起です。そこを、さとればいいんでしょう。さとれんからまた食べるんです。それはさとっておらん証拠です。ですから、さとってしまえば、腹が減ってきたら減ってきたで、別に苦しまんでいいんです。それからまたよけいに食べんでもいいんです。よけい食べれば、相互関係がバランスを失って苦しむんです。どれくらいのものを摂っておれば、きょう一日、適当な状態でおれるかということになるのです。縁起の理をさとっておればですよ。けれどもそううまくできないのです。

 諸法は縁起である。もう一つは、ここに来るんです。それは空ということです。この二つを考えなければ法性はわかりません。諸法は何であるか。縁起である。縁起なるが故うに空である。ここにその法性が出てくる。法性という概念の意味なんです。諸法という存在の性は空なのだ。こればっかりいうからわからんのです。もろもろの存在は縁起のほかない。縁起の理によって生じたものだと。その縁起の理をさとったのが、すなわちさとり、法身なのです。その縁起の理をさとったというが、縁起の理とは何かというと、空なのだ。諸法は空である。この三段階で理解をする必要がありますけれども、普通はあまりこれを理解しないので「法性」という意味がわからないないのです。

 ここに松の木がある、という。松の木が空だというんです。松の木は空なのだ。でも、ぶつかったら、こぶが出来るでないか。そうだ、と。それは相互関係で、こぶが出来た。空であるが故に、こぶが出来たのである。それは、空であるが故にまたひっこむ。そういうわけです。松の木だって、いまに枯れたり、切られたりして、無くなる。あるがままに空であるという智慧なのです。あるものを消してしまって空ではない。自分達の狭い煩悩の観察というものを破って、あるがままに空であるという。そういう如実の観察、如実の観察の内容が縁起である。如実の観察の縁起の状態ほど微妙なものはないんです。実にこの死せるものまでが生きておるという。死んで、我々からいうと命のない、なんの価値もないというものまでが、やはり渾然とした生命をもっておるというふうに見えるわけです。

 したがって煩悩の立場から見たところの存在、我々の煩悩の立場から見たら固定して見える。松の木というものがあるんだ、と。あそこに、いつまでもあるんだ、と。もとからあるんだと思うておるんです。小さいのから大きくなったということがありながら、我々はもとからあるんだという意識なんです。ですから、枝が出てくるでしょう。そらが邪魔になりますから、はしごを出して切ります。折りますでしょう。場合によっては、「人の松の木をことわりもせんと、なんだ」と、どなられるんですね。なんでか。もとからあると思うておるからです。もとは無かった。もとは地面だったのでしょう。いつのまにか、そこに生えたのですからしかたないです。ところが、そういうことは見て知っておりながら、「おれんとこの松の木を切ってなんだあー」と、怒りに来るんです。こちらのほうも、のびてしまわないさきに枝を切っとけばよいのです。前に出てくるぞと思うたら、ぷちんとハサミをかけて切っとけばいいんです。    (つづく)

 前回からの配信が私事の為に随分遅れましたことをお詫びいたします。「唯識に学ぶ」書き込みも開導依の入り口で停滞しておりますが明日から再開したいと思いますのでよろしくお願いいたします。


『唯信鈔文意』に聞く (32) 法性のみやこ 

2011-05-08 22:43:03 | 信心について

 父の容態は一進一退で推移しています。生命力の強さにはただただ驚かされます。生きたいと思う力は我執かもしれません。しかし、その生命力は私たちに命の大切さを教えてくれます。ただ単なる我執ではありませんね。我執の中に大切な悲願が本能的に備わっているのではないでしょうか。酸素マスクを装着しているのですが、時折大きく深呼吸をするのです。酸素の数値が下がってくると生きようとする力が働いて、そこに命の大切さを無言のままに訴えています。「命のすばらしさを見よ」といわんばかりに。

          ―     ・     ―    

   『唯信鈔文意』に聞く (32

                     蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より 

   「また『来』は、かえるという。」

 「来」というのは、我々は、来るとばかりしか読みませんが、かえるという場合にも使う。「かえる」と漢字では使う場合があるのでございます。かえるのも行くのですから、「帰去来」ということがあります。「いざいなん」と読むのですが、善導の『玄義分』に「いざいなん」という言葉があります。ここにはしばらくもとどまるべきでない、と。「いざいなん」というのであります。「帰去来」という、帰り・去り・来ると書いて7、「いざいなん」と。ですから、帰るという、去るという、来るという、字はいずれも、来る、かえるという意味に用いられるわけです。

  「かえるというは、願海にいりぬるによりて、」

 別に、かえるというたから、荷物を作ってどこかへ行くというわけではないです。「願海にいりぬる」。いる、と。「願海にいる」ということは、願海に帰すること、本願に帰することでございます。自力を捨てて他力に帰することを「願海に入る」というのでございます。

  「願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたるを、法性のみやこへかえるともうすなり。」

 「願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたる」。それを「法性のみやこへかえる」という。「かえる」という文字をもって7こういう意義ををあらわされるのであります。「大涅槃」ともうしますのは、先程あります信心の利益は正定聚に住するという、正定聚に住すれば必ず滅度にいたるという。滅度とはすなわち大涅槃であって、大涅槃にいたる道が念仏であると信ずるのを金剛の信心というのでありますから、これも信心の利益をのべられるのであります。必ず大涅槃にいたるというのが来迎という言葉の真実の意味なんです。それを「かえる」というのは、「法性のみやこへかえる」ということをもうされるのだ、と。来迎の「来」というのは、法性のみやこへかえるという意味をいわれておるのだ、と。こういうわけです。

  「法性のみやこというは、法身ともうす如来の、さとりを自然にひらくなり。」

 法性という言葉は、法は一切法のことである、と。すべての存在です。あらゆるものというてもいいと存じます。法にはいろんな意味がありますが、ときによってダルマという意味もありましょう。ダルマという場合は教法でしょう。教えのことです。法というだけのときは仏の教えという意味ですね。仏・法・僧の三宝というたときには仏の教えということをあらわすのでございます。それから法性というた場合には、仏の教えの性というのも変なものですね。教えの性という、それは性といえんでもない。まあその意味もありますけれども、変わらないということです。性は改まらずという意味です。変わることがないという意味ですから、教えの性といえないことはありませんけれども、この場合の意味には当たりません。その意味がないではありませんけれども、法性といいましたときには、一切の存在というのを法という。一切諸法の性です。一切諸法の本性、あらゆるものの本性です。本当の相、あらゆるものの基本ともうしますか、基本ですね、本という意味に解釈したほうがよろしゅうございます。本性とか王法本という言葉がございます。法の本、法性という言葉です。
その場合の一切法ともうしますのは、諸法でありますから、したがっていろいろ種類が多いわけでしょう。法相宗の法相というような場合には性相学といい、万法というものを分類するわけです。諸法は万法というてもよろしゅうござじましょう。いろいろと説がございますが、いわゆる五位七十五法、五位百法ともうします。小乗五位七十五法ですか、法相になりますと五位百法ともうします。心王・心所というようなものを立てまして、五つの位に分ける。それをさらに細かく百に分けるんです。唯識ですから根本は阿頼耶識です。阿頼耶識というものを根本として、一切万法は阿頼耶識の転変したものだと。阿頼耶識というものを根本として発展させていくという、それで発展したものだと。こう説明するのです。本当は発展というのは説明のための言葉ですけれども。実際は、唯識というものは発展などという、そういう近代的な考えでは間違いなんですけれどね。近代でなくても、昔でもそういうふうに、常識的にはそうなんでしょう。常識的にどうして生ずるかということになれば、
親から子供が生まれるという意味が常識ですから、種をまけば、カボチャの種からカボチャがなるという、そういう常識に当てはめて説明すれば、やはり発展説になるでしょう。そういう間違いはありますけれども、すべて唯識であるというて、阿頼耶識一つにみな摂めるのでございます。
今日では、諸法というのは万物ともうしますでしょうか。物ですからね。万物の根本は何か、やっぱり物質ですから、物質の根本は物質でしょうね。人間の考えというのはそういうものです。ここに今日出てきております根本というのは、もう物理学しかないんです。科学も基礎的には物質の問題です。つまりは物理学です。エネルギーにしても、エネルギーのもとは何かというたら結局いまの原子物理学ですから、原子核とか、あるいは中間子とか、中性子とかそういうようなことで説明しています。それから陰電子とか陽電子とかいうものです。こんなものは今日、誰でも知っています。テレビで始終いうておるものですからですね。けれども知っとるだけの話であって、何が何やら分からんのです。中性子といい、中間子というて分かっとるといったって、一体あれ、分からんから中間子といっとるんだそうです。そうでしょう、「中間」ということは、つまり分からんということで、どっちへいったっても分からんで「中間」と。中性子とは何か。どっちにでもつけられるから中性子。中間子ともつけられる。そういう名前ですけれども、何かそのようなものがあるように思いますですね。別にないんです。ですから、おかしなもんです。人間の考え方というものは。万物の根本は、今日ではああいう核です。そういう妙な、あるかないか分からんようなものになって、その微量なものから強大なエネルギーが解放せられるんだなんてですね。では、そのエネルギーって一体何だ、というと、また陽子とか何とかになって、うにゃうにゃ出てくるのですね。 (つづく)


『唯信鈔文意』に聞く (31)  若不生者の誓い

2011-05-01 17:56:00 | 信心について

             『唯信鈔文意』に聞く (31)

                   蓬茨祖運述 『『唯信鈔文意講義』より

 「それから、さらに一歩進みまして、こんどは真実信心の次にさとりです。さきほど、正定聚とありましたが、一歩進んで、真実の証という意味で来迎ということを述べられるのであります。普通では考えられないことでありますが、宗祖としては極めて当然のことでございましょう。

  「『来迎』というは、『来』は、浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりまり。」

 「若不生者」は十八願の言葉ですが、「若不生者」という、この「生」とは往生のことでございます。「来迎」とは「若し生まれずは」という誓いをあらわすみのりである、と。そうしてみますと、来迎ということが第十八願の誓いをあらわすのだ、ということです。言葉だけなら十九願になりますけれども、しかし、十九願というのが別にあるんじゃないのです。十九願が諸行で、万の善根を積んで成仏しようという聖道門の教えを信じておる人、諸行の機というのですね。諸行の機に向かっては来迎ということばであるけれども、念仏の機に向っては十八願です。ですから十九願と十八願というものは、何か、ものが別々にあるように思われておりますけれども、ものは一つであるということです。十八願というものは、念仏往生の誓いでありますが、念仏往生の誓いを諸行の機が受けとると、十九願の誓いとして受け取られるということでございましょう。で、念仏の人、いままでは信心の人、念仏往生を信じた信心の人のご利益としていうてきたわけですから、その信心の人のご利益として説かれる来迎というのは、「『来』は、浄土へきたらしむ」という意味であって、「これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり」と。十八願では「若不生者」に当たるのだということです。十九願の行者には「臨終現前」です。「臨終に、大衆とともに、その人の前に現ぜん」という言葉で受け取られる。

 しかし、この言葉はまた原始仏教を研究している人には、釈迦は縁起を説いたとか、八正道を説いたんだとかというふうに受け取られるわけです。八正道さえつとめればさとりが得られるんだというふうに受け取られる。いまは念仏の機、信心の人には来迎というたら「若不生者」の誓いをあらわすのである、と。

  「穢土をすてて、真実の報土にきたらしむとなり。」

 穢土ともうしますのは、普通はこの世を穢土ともうしておりますが、この世だけではなくして、今日までのながいながい迷い、あるいは惑業です。煩悩やら罪業の積み重ねのうえに、生まれたり死んだりしてきた世界です。その立場です。その立場を捨てて、真実の報土に来たらしむ、ということである。穢土というと、すぐにこの世、と。この世と簡単に考えますが、この世に生まれてきたというのは穢土に生まれてきたということである。穢土というのはどこか。

 「穢土をすてて、真実の報土にきたらしむ」るということは、この世という環境だけを考えておりますけれども、この世というものは我々の心境でもあるわけです。心境と環境というものは別ものじゃないのです。したがって、我々自己自身というものをこの世というものと離して考えますから、「穢土をすてて」というと、すぐに死んでからというふうに思うのです。

 どこが穢土かともうしまっすと、普通の人間にとって一番穢いものは何かというたら、糞便ですね。死ぬということは、つまり糞便の中に死んでいくわけですから、糞便の他にわが身はなかったということです。糞便というものの他になかったものが、真実の報土というきれいなところがあったといたしましたならば、そんなきれいなところへいきましても甚だ困る。

 これは、やはり「穢土をすてて、真実の報土にきたらしむ」るということです。我々の常識では考えるというと、二つのものを立てて一つを捨て、一つを取るように考えられますが、「若不生者」の誓いとありますから、やはり一つなんでしょう。穢土を捨てて真実の報土にきたらしむということは一つのことなんです。つまり、一つは信心のはたらきです。ですから「すなわち他力をあらわす御ことなり」とあります。信心の他力ということをあらわすみのりである。あるいはみこと、仰せである、仏言でる、ということであります。仏のおぼしめしなのだ、と。我々が穢土へいく、極楽へいくという、そういう分別ではないんです。仏のおこころをあらわすおことばである、ということです。我々から考えるから、極楽から迎えにこられるんだと、こういうふうに思う。仏のみことばとしてみると、一つになるわけです。我々を捨てないで、さとらしめる、と。穢土ともうしましても、いろいろ言い方がありますが、無明です。無明煩悩というものによって穢土につながれておるわけでありますから、それを仏の願力によって無明煩悩というものを消す。消し失う。消し失えば真実の報土にいたるという意味になるわけです。 (つづく)


『唯信鈔文意』に聞く (30) つづき

2011-04-25 23:10:48 | 信心について

Wakakusa  書き込みが今日の日付になっていますが、実は昨日の夕刻に書き込んでいる途中にですね。子供が散歩に誘ってきました。その誘惑に負けまして、まあ車に乗って奈良まで行きましたが、その誘いの理由がですね、ガソリン代と夕飯と高速料金を出させる魂胆だったのですね。しかし、うれしいですね。もうすぐ成人になろうとする息子が親を誘ってくれて夕闇に沈む薬師寺や唐招提寺、そして、興福寺の五重塔をゆっくりと車を進ませながら車窓から眺めさせていただきました。若草山のドライブウエイを登り、山頂から奈良の都の夜景を楽しみました。そして、五月の連休には親鸞展に行こうと約束し、本山にも参詣したいと思いを馳せています。昨日のつづきを書き込みます。

 「方便自力です。利他教化地、方便権門の道路と、こういわれておりまして、十九願というものから利他ということをいわれておるわけです。

十九願ともうしますのは、単に『観経』の定散二善とかいうようなことだけでなくして、定散二善を説くためにはその前に一代教、一代の間の説法です。それはどれだけ説かれたかわからないけれども、まず八万四千の法門というものを説かれたといえば、みなこれ第十九願の「修諸功徳の願」というものに応えて説かれたものである、と。こういうことをいわれております。現実においては、八万四千の法門などを釈迦は説かなかった、と。釈迦は、縁起とか、五蘊とは、八正道というようなことを説かれたのだと、こういうてもかまわない。それはそれでいいのです。それが一代教です。なにも八万四千の法門というものが一つでも欠けたらいけないというわけではありません。四諦の法とか、縁起とか、八正道とか、五蘊とか、こういうようなことは、釈迦が説かれたものといえるけれども、あとはその後に出来たものだ、と。こういう常識ですね、これは常識ですからそれでいいんです。それが一代教というものです。釈迦の一代教というものです。

 その釈迦の一代教はどこから出たのかというと、それは第十九願から出たんだ、と。十九願なんか釈迦は説かなかったではないか、と。説かなかったというけれども、すでに一代教というて、釈迦が説いたということをいうたおるでないか。釈迦が説いたというておる以上は説かなかったとはいえない。それじゃ説かなかったわけじゃない、と。いや十九願とか、そんなものを説かなかったけれども、これこれを説いたということは、はっきりしておるんだ、と。それなら十九願も説いたんだ、と。そういうことになる。なぜかというと十九願の中に四諦ということもあるからです。五蘊の法もあれば、八正道ということも十九願の中にあって、それは修諸功徳の一つなんだ。修諸功徳の一つです。四諦ということを勉強してなるほどと思うのも一つの功徳なんです。十二縁起を勉強して、なるほどこういうことを釈迦が説いたのかと思うのも一つの功徳なんです。五蘊の法ということを学んで、なるほどこういうことを釈迦が説いたのかと思うのもそれも一つの功徳です。功徳の証拠には釈迦が説いたというておるではないか、と。釈迦が説いた、なぜいうのか。功徳があるからです。

 功徳ということになりますと、いろいろな功徳があります。こういうことさえ書けば試験に通るぞと教えて月給をもらうという功徳もある。いろいろ功徳があるんです。修諸功徳。どうもこれは、人によっては何かの加減で、自分はなにもしなかった、これだけのことしかしなかった、せめてこれだけが自分が世の中へ出て人のためにしたことであった、とそう思えばそれが功徳なんです。なにもできなかったけれども、この研究だけ一つ後に残した。それがせめてもの満足だと思うて目をつむるというようなことも一つの功徳です。その中にやはり「この功徳をもって」ということがないとはいえない。 

 ですから、十九願というのは、「臨終現前の願」と。臨終というのは、別に息が切れる時が臨終とは必ずしも限らないです。息が切れるというようなときには、息が切れていく本人はわからんので、風邪ひたのといっしょです。風邪ひくのはいつひたかわからずひくのです。死ぬのはいつ死ぬかわからずに死ぬのです。いま風邪ひいたと思うことはないんです。いつか咳が出てくるんです。風邪ひきまうとですね。熱が出たり、咳が出てきたりするのが風邪ひいたときで、いま風邪ひいたというときに覚えはないのといっしょです。死ぬときもいま死ぬというときはない。知らん間に死んでしまうのです。気がつくのは死なん人間の方です。もっとも、死なん人間も気がつかんうちに死んでしまうときもあるんです。大事な親と思うて見守っていてもなかなか死なん。もう駄目だというてから三日にもなる。それなのにまだ生きておるということがあるのです。ちょっと目を離した間に死んでしまうということがあるでしょう。普通は見守っておる方が臨終なんです。見られておる方より、まくらもとで見ておる方が臨終なんです。息をつめてますものね。一息一息数えて、いまにも自分の息が切れるような思いでですね。で、臨終というのは、ある意味において人間の最後の悔恨のときなんでしょう。最後の悔恨。懺悔というより悔恨です。いかに悪い人間であってもいま死ぬというときには、やはりないがしかの気持ちを覚える。

 臨終来迎ということは、実に浄土門においてのみ、往生極楽の教えにおいてのみある、非常に妙味のあるものです。常識的にはばかにしますけれども、ばかにしながらもみんな常識的にはまた一番親しめるところなんだろうと思います。しかし、宗祖はさらに一歩進んで臨終来迎ということが真実の仏法の、仏道の救済であるということならば、それ真実信心というものの働きでなくてはならないと。そういうことを述べられたのであります。 (つづく)