『唯信鈔文意』に聞く (39)
蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より
「この信心をうれば、等正覚にいたりて、補処の弥勒におなじくて、無上覚をなるべしといえり。」
「等正覚」ともうしますのは、この場合は正定聚のことでございます。正定聚を等正覚ともうされる。もう仏になるということに一念もうたがうことがないという立場ですから、妙覚、仏の位を妙覚というなら、妙覚の前の等正覚です。等正覚ということには、仏のさとり、成等正覚という無上覚と同じ意味で等正覚という言葉が使われる場合がありますけれども、ここでは正定聚と同じ意味で用いられるのであります。「補処の弥勒に同じくて」と。釈尊のあとを必ず補なわれるという意味で、弥勒菩薩のことが伝わっておるわけでございますから、それで弥勒菩薩を出されて、必ず無上覚に成るのだといわれるのであります。ですから次に、
「すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。」
ということなのだ、といわれております。
「このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれむこと、金剛のごとくなり、」
「金剛のごとく」というのは、弥勒菩薩の等覚の金剛心ともうします。弥勒菩薩のさとりのことを金剛心というのでありますが、いまは真実信心は、いかなるさわりにも、いかなるさまたげにもやぶれず、また、かたぶきもしない、また、みだれもしないということを「金剛のごとく」といわれるのであります。
「しかれば、金剛の信心というなり。」
「金剛の信心」という言葉は、もとは善導に「金剛心」という言葉がありまして、『玄義分』のはじめに「正受金剛心」とあるんです。「まさしく金剛心を受け」と。「正受金剛心」という言葉があります。
「証智未証智 妙覚及等覚 正受金剛心 相応一念後 果徳涅槃者」
とあります。それと『三心釈』の「回向発願心釈」です。
「この心深信せること、金剛のごとくなるに由りて、」
とあります。「作得生想」とありまして、その「得生の想を作せ」という言葉について、「この心深信せること、金剛のごとく」とあります。ですから、「やぶれず、かたぶらず、みだれぬ」ということには、いわゆる深信ですね。深信という、深く信ずるということです。いかなる人がやぶっても、それにやぶられない。それからまた『二河白道』譬喩などのありますように、群賊悪獣によってもやぶれず、みだれないという意味です。そういうものが背景となっております。
「『大経』には、『願生彼国 即得往生 住不退転』とのたまえり。」
これは、本願成就の文をお引きになりまして、
「『願生彼国』は、かのくににうまれんとねがえとなり。『即得往生』は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり。」
これは証文として出されるのでございます。
「成等正覚ともいえり。」
これは異訳でございます。「成等正覚」という言葉が『如来会』にありますので、それを指されるのであります。
「これを『即得往生』というなり。『即』は、すなわちという。すなわちというは、ときをへず、日をへだてぬをいうなり。」
「ときをへず、日をへだてぬ」ということは、本願の名号を引いて、そして「本願を信ずる」そのときということです。その「ときをへず」、また、それから「日をへだてぬ」ということをいうのだと。「即」というところに一念ということ、「乃至一念」ということがあるのを略されております。
「おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八の大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大海の誓願を成就したまえるによりてなり。」
言葉の説明は別にもうしあげるまでもありませんが、特に「一乗大海の誓願」ということですね、これはまあ一応説明の必要な言葉と存じます。」
「『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにて、あきらかなり。証誠護念の御こころは、『大経』にもあらわれたり。すでに称名の本願は、選択の正因たること、悲願にあらわれたり。この文のこころは、おもうほどはもうさず。これにておしはからせたまうべし。」
「この文のこころは」ともうしますのは、十七願のことでございます。
一段おわりまして、それからこのあとの「この文は」というのは、偈文であります。『法事讃』の偈を指されて、「この偈文は」という意味です。
「この文は、後善導法照禅師ともうす聖人の御釈なり。この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまえり。」
法道和尚と慈覚大師はお伝えになったというのであります。別人らしいのでありますけれども、そういうふうに伝えられとことを述べられるので、歴史的に法道和尚はどうのこうのといろいろありますけれども、そういうふうに伝え「られたわけであります。
「また『伝』には、廬山の弥陀和尚とももうす。浄業和尚とももうす。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり、このゆえに後善導ともうすなり。」
伝説は、これは確定的な史料ではありませんので、ただこういうふうにいい伝え、いい伝えして、法照禅師という方はいろいろに伝えられておるようであります。このいい伝えの方を大切にすべきでありました、歴史学的にこうであったということの方は参考にすべきだと思います。伝えられてきたものの方が生きておるのでありました、調べてこうだったというのは、いわゆるほじくってですね、もうこういう偈文の意味などとは無関係に人間というものが、どうだこうだということでありますから、いわゆる全く物質的立場からの見方になりますので、注意を要するのでございます。物質的にどうであったというてもそういうものは何の力もありません。それよりも伝説的に伝えられたということが大切に受け取らねばならん問題を含んでおります。
第四講 完了。