唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (42) 第五講 その(3)

2011-07-17 15:10:53 | 信心について

B5c0b1e0bad7a4eaa3b1  真夏の風物詩 祇園祭の山鉾巡行が今日の午前九時頃から四条川原町~八坂神社へと繰り広げられました。京都テレビはライブでその様を放映していましたが歴史と優雅さを感じました。ちなみに私の地元も昨日・今日と夏祭りで賑わっており、だんじりの曳きまわしが町内を祭り一色に染めています。午後八時頃からは隣町の鶴見神社とのだんじりの競演が繰り広げられ、一気にボルテージが高まり、今月二十四日からの天神祭りへと夏本番のステージが移行していきます。    

    『唯信鈔文意』に聞く (42) 第五講 その(3)

         - 「一乗大海」 (2) -

                         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「そういうわけで「一乗」ということも、一乗を説いた『法華経』というお経が一乗のお経だと。それを説いていない他のお経は一乗のお経でないんだ、と。浅いお経だ、方便のお経だ、価値の無いお経だ、と。こんなふうに考えられました。つまり「もの」のように考えられるんです。

 で、いま一乗・二乗・三乗というこの見方に対して、十七願を基礎にして一乗といわれたその立場の違いは、これは難しい言葉を使わなければなりませんが、因より果にむかうという立場において、二乗とか、三乗とか、一乗とかいうてきたものであるということです。『法華経』が一乗というのは、やはり因より果に向かう道。この『法華経』を信ずるならば本当のさとりが開かれるんだと。こういう意味では、京都へ行ったら、新幹線に乗れば、終点の東京に着くんだという立場に立った道なのです。これが三乗とか、一乗とか合わせて四乗道と。四乗道によって四乗道の果を得るというわけです。

 いま宗祖のいわれる「一乗大海」というのは、逆で、これは「従果向因」と昔からいうております。果より因に向かう。そういう意味です。果より因に向かうということと、因より果に向かうということは、両者関係がないんじゃないんです。因より果に向かうということはどうして成り立つかといえば、果より因に向かうということを基礎として成り立つわけであります。果より因に向かうという基礎がなかったならば、因より果に向かうということはありえない。ですからここに十七願という意義があるわけです。十七願というのは何かというと、諸仏称名の願。諸仏とは何かというたら、従果向因の道を成就して、仏になられたのが諸仏でございます。いわゆる声聞の道を極め、縁覚の道を極め、それから菩薩の道を極めて等覚、妙覚のさとりを成就せられたのが諸仏です。

 それは、無限の時間というもの、無量の時間というもの、無量劫という間を考えてみれば、いま地球の生命などは一瞬にも足らんわけです。地球上においては、釈迦が仏になった、と。釈迦一仏であるけれども、しかし無量劫という時間を考えたならば、星のまばたきですね。その時間は流星の消える間にも足らんという比較もできるわけです。我々の頭ではちょっと比較もできませんけれども、しかしそういう比較もやはり否定できない。無限ですから。はじめなど探すことのできないほどの遠い遠い昔。それなら地球がいつごろできたかというと、いまの科学者ならば大体地球がいつごろできて、どれくらい経つかということぐらいはおよそ推定します。こんなちっぽけな地球ができるのに、それくらいしか時間がかからなかったのか、というようなものです。ですから、そういう意味で無限の時間の中にどれくらいの生物が、またどれくらいの、こういう地球なり、天体が出来て消え去ったかわkらないという、そういう無限の時間に比べたならば、一瞬のまばたきにも足らんと。それすらも比較できないというほど短い時間だということになれば、諸仏ということも考えることができる。ただし、地球の尺度だけでは考えられんでしょう。月へ行くのに苦労しておるような頭では考えられません。小さな頭では考えられません。それで世界で一番大きな頭と思うておる、あの電算機などを使うてやっておるのです。大きくもなにもないです。あんなもの筮竹(ぜいちく)をふっておるのとかわりないです。 

                           (つづく)

 語句注

  筮竹 - うらないに用いるめどき。五十本で、長さ九寸。上をまるくして天にかたどり、下を四角にして地をかたどる。元はめどはぎの茎で作った、占いの具、後世は竹で作り、筮竹という。


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