唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (41) 第五講 その(2) 「一乗大海」

2011-07-10 20:20:11 | 信心について
 『唯信鈔文意』に聞く (41)

     第五講 教行証の歴史のもとに その(2) 「一乗大海」

         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「「一乗大海」ということは、弥陀如来の誓願、特に第十七願に名づけられておるわけであります。一乗ともうしますのは、これは一つの乗り物ということです。一つの乗り物であっても、小さくては駄目ですから、大きな乗り物。仏の教えというのは一つの大きな乗り物である。一切の衆生、男女貴賎、善悪の衆生をわかちなく、罪悪深重のものも、それから大乗の聖人もすべて隔てなく成仏せしめるところの乗り物という意味が、一乗という意味であります。ですから、二乗・三乗に対して「二乗あることなし」と。それで『行巻』には「一乗海釈」というのがあります。そこに「『一乗』は大乗なり」といわれています。「大乗」というのはどういうことかともうしますと、「無辺不断」であると。無辺というのはほとりなし。不断はたえない、と。無辺は無辺の衆生です。無辺の衆生を、ほとりなき生死の衆生というものを救うということであります。不断ともうしますのは、それがたえないと。いわゆる一時的じゃないわけです。いつまでもその利益がたえないということです。

 すなわち大乗とは仏乗である。「二乗・三乗あることなし」と。「ただこれ誓願一仏乗なり」ということをいわれております。あるいは「究竟一乗」という言葉がそこにあったかと思います。この一乗という意味は、大乗ということなのでありますけれども、大乗といいますと、小乗に対することであります。小乗に対する大乗ということになりますと、いわゆる菩薩ですね。声聞・縁覚に対する菩薩乗ということになりますから、それで三乗と。その上に仏乗を加えると四乗となるわけです。四乗道と。それに対してさらに、三乗の中の菩薩乗でもない。三乗を否定した上にさらに仏道としていわれた一乗でもないという意味であります。それが「誓願一仏乗」という表現になります。誓願一仏乗という意味です。これは第十七願、諸仏称名の願という誓願を基礎として述べられるのであります。

 普通は、一乗と申しましたら、『法華経』です。『法華経』が一乗教といわれるものであります。『法華経』は日蓮宗のおはこですけれども、いわゆる「四十余年未顕真実」という言葉ですね。そういうことを盾に取りまして、『法華経』以外はすべて方便、『法華経』だけが真実と。そして内容は火宅の喩「えです。火のついた家の中に子供が遊んでおる。長者が帰ってきて、「早く出よ」という。「火事だから早く出よ」というけれども。子供たちは遊び戯れていて出て来ない。それで、門の外には、羊・鹿・牛の三車ですね。羊と鹿と牛との三つの車があるから、それに乗って遊ぶと、家の中で遊ぶよりもずっとおもしろいというわけです。それを聞いて子供たちがようやく家から出て、もんの外へ出てみたところが、羊・鹿・牛という三つの車はなかったけれども、一つの大きな白い牛の車があった。その車に子供たちがみな乗り込んで、そして広いところへ遊びに出た。そのために火事で焼け死ぬのを免れた。こいう喩です。

 羊・鹿・牛の三車というのが三乗です。声聞・縁覚・菩薩という、三乗の教えに迷うておるものだと。だからそれを捨てて、そして『法華経』という大白牛車ですね。白い牛の車一つにみんなが乗って救われるのが『法華経』である、と。そうすると、ここで昔から三車家・四車家の争いがあるというのです。おなじ『法華経』でも、法相宗の方で、『法華経』というものは、べつに法華宗のお経というわけにいかんわけです。仏の説いた教えを「これは我々のお経だ」なんていうのは、勝手にいうておるんです。いや、これもわが家のお経だと、他のものをいうたっていいわけです。みんな日蓮宗や天台宗とか、法華宗とかいうものだけが『法華経』の専売特許でもあるような気になっておりますけれども、なにも専売特許はどこにもないんです。仏の説いた仏説であったならば、どこの誰が用いてもいいわけです。ですから、その大白牛車というのは、つまり羊・鹿・牛という三つの車のある、その牛車というのがそれなのだと。其れはつまり唯識の教えで、法相の教えである、と。こういうふうに法相家ではいうわけです。そうするとそうじゃない。それを捨てるんだと、別に白い牛の車があるんだと。それを四車家といいましてですね、そういう争いをしておったものだそうであります。

 こういう争いも文字です。文字にこだわるともうしまうか、先程もうしましたように、仏のこころよりも経典の文字を主として見るからでございます。常識的に見たら文字だけがたよりですから、文字に書いてあるということが大事でしょうね。借金の証文のような気になるんです。借金しても証文が書いてなければ払わんでもいいと。そういうときには書いておかんならんわけでしょう。しかし借金したら払わなければならんということがあるならば、別に証文なぞいらんわけです。しかし証文がないと、「いや、あれはいつか払ったはずだ」といわれたら仕方がなくなりますから、一筆かいて確かに借りました、と。書いたものがものをいう。世の中というのは書いたものがものをいう。そういう世の中になりましたから、お経にも書いてあることが、書いてあるということだけがものをいうということになるんです。そうしてお経に書いてあることだけを種にするわけです。書いてあるもの自体がこんどは偽物だとなったら、書いてあることさえ当てにならんのです。これが現代における宗教の問題です。書いてあるから確かなんだと昔はいうておった。書いてあるもの自体が誰かが造ったのであった、本物でないんだというような考えですね。ですからお経というようなことを誰も信用しなくなった。信用しなくなったかわりに人間どうしも信用しあうということがなくなって、証明書類ばかり書かにゃならん、と。問題はつまり、言葉の上、文字に基礎をおいた結果なんです。そういうことがわからないんです。だんだんわからなくなったのです。

 ですから、こういう宗祖の文章もなかなか分かりにくくなった。それは、文章がわからんのでない。こちらの方が書いた言葉の意味だけしか理解しないという、筋書きだけしか理解しないという立場におるからです。したがって小説でも、小説と事実とを混乱して、書いてあるというだけで、小説も事実も一緒にしてしまうわけです。新聞に書いてありさえすれば本当だと思うようになってしまった。新聞に書いてあることは大方嘘なんですけれど、日本中に配られるものですから本当になるんです。あれは大体嘘ばかりなんでしょう。嘘に間違いない証拠には、昨日のことが新聞というてあるのが大体嘘です。済んだことなのです。済んでしまって、もう無いことが有るようにいうてあるのですからね。そういうようなものの上に立っての人間の考えですから、それで仏教も次第に形だけのもになり、人間というものの最も大切なこころという問題を離れていったわけであります。  (つづく)

 


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